C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

茨城県天心記念五浦美術館

 

北茨城市の五浦海岸の付近に、岡倉天心が居を構えて美術院を開いており、その跡が美術館になっている。

 

電車で行く場合の最寄り駅は、常磐線大津港駅

両隣の駅は特急止まるけど、この駅は止まらないので、じゃけん鈍行で来ましょうね。

 

 

最寄り駅(近いとは言っていない)なので、徒歩で行くと40分かかる。

北茨城市コミュニティバス五浦線が美術館まで出ているので、これを利用。

 

ただこのバス、1時間半に1本ペースなのに、電車の時間と合ってなかったりするというポンコツ仕様。

あと曜日によっては運行していない場合もあるので、事前に要確認。

 

 

 

バスで20分程度。一律100円という破格な安さである。

赤字待ったなしのはずなのだが、たぶん料金を300円にあげてもどうせ赤字になるから、もう潔く低価格でやっているのかもしれない。

 

 

「五浦美術館」というバス停で下車。

するとここから果てしない上り坂を行くことになる。

 

 

5分ほど上り坂を行けば美術館に着く。なお瀕死の模様。

もうちょい低いところに美術院つくってくれよな天心先生。

 

 

しかし美術館は気品漂う感じである。

まるで天心の精神の気高さを表しているかのようだ(適当)

 

 

 

展示ルームは撮影禁止なので、無関係なところを。

常設展と企画展があるのだが、このときは企画展の展示替え時期だったので、常設展のみ。

 

 

館内からは五浦の海が見渡せます。

 

外観からして入館料高いだろうなぁと思ったら、190円だった(常設展のみの場合)。

 

 

 

展示室内で唯一撮影可能なのが、このレリーフ

天心先生の横顔を模っております。

 

 

 

レリーフと同じ紋様が館内のどこかに隠れている、とガイドさんに言われたので探してみると、窓に付いていた。

 

 

Wikipediaより

 

さて、肝心の展示内容は岡倉天心の人物史と、彼が五浦に設立した日本美術院についてである。

 

東大を出て文科省の役人になった彼は、1889年に東京美術学校(現 東京芸術大学)の開校に携わり、27歳で校長になる。

ちょっと若すぎるんじゃないですかね。

この時に学生だった横山大観・下村観山ら後の大家達を指導しており、この縁はあとまでずっと続くことになる。

 

 

東京美術学校の制服。Wikipediaより) 

 

すでにこの時点で日本画史に残る活動っぷりをみせている天心だが、彼が考案した学校の制服は天平時代の服装を模しており、「どこの聖徳太子ですか」な面白い見た目であったため、学生からはダサいと評判だったという。

 

そのあと学校では音楽性ならぬ絵画性の違いが生じて内紛状態になり、結果的に天心は排斥されて辞職。たぶん変な制服作ったからだと思う。

1898年、自ら「日本美術院」なる団体を結成。

これに教え子の横山大観らが加わって東京は谷中で再スタート。

 

教え子達が恩師を自ら助けに来たのか、それとも元教師に「(日本美術院で)やらなきゃ意味無いからな」と連行されたのか、実際のところは謎である。

 

 

横山大観秩父霊峰春暁』)

 

そんなんでスタートした日本美術院では、西洋画の手法を取り入れた新しい画風の模索が始まった。

 

はっきりとした線がない朦朧体というスタイルであるが、「なんか勢いがない」「よわそう」と世間様からはなかなか理解を得られず、苦しい時代であった。

 

ボストン美術館Wikipediaより)

 

またこの頃、天心はアメリカのボストン美術館で日本芸術の講師をやることが多くなり、斜陽の日本美術院より海外活動の方に力が入ることになる。

 

 

 

そんなときに知り合いの日本画家 飛田周山の案内で訪れたのが、この五浦である。

この土地にドはまりした天心は速攻で引っ越してきたほか、割と放置してきた日本美術院を絵画と彫刻の2分野に分け、絵画分野のみ五浦に移転させた。

なお彫刻分野については、その後の行方を知るものはいなかった・・

 

 

(五浦で釣りをする太公望天心さん。五浦美術館の旧HP?より)

 

日本美術院へのやる気を復活させたかに見えた天心だったが、アメリカでの活動が順調すぎてそっちばかりに気が行ってしまい、ボストンに渡っているか五浦に籠るかの2択状態。放置プレイ再び。

五浦に籠っているときは釣りキチ状態であり、しかもその服装がまた太公望とかアイヌみたいな恰好だったので、近所のおばさんからはだいぶビビられていた模様。

 

なお一方で、恩師に放置されていた横山大観らは朦朧体を完成させ、画壇を沸かせていたのだった。

楽しそうでなにより。

 

(プリヤンバダさん。五浦美術館の旧HP?より)

 

1913年に天心は50歳で亡くなるわけだが、その前年にインドの女流詩人プリヤンバダ・デヴィ・バネルジーと出会い、文通もとい思いっきりラブレターを交わしている。

 

天心、すでに奥さんいるんですけどね。

あのさぁ、とため息をついたところで、展示はおしまい。

 

 

 

美術館の裏口の方から海の方へ向かう。

まさに日本美術院が建てられていた場所である。

 

 

なおほとんど放置崩壊状態にあった日本美術院だが、天心の死後に横山大観らが再興して現在まで継続されている模様。

 

 

このあたり。

 

 

石碑が建っております。

 

 

美術院はこんな崖の上に建てられていたわけで、まさに下は海である。

天心や大観らは大酒のみだったが、酔って道頓堀ダイブしなくて良かったですね。

 

 

あと六角堂の近くに、天心の墓があります。

 

 

まぁ墓は東京駒込の染井墓地にあるのだが、分骨してもらってここにも作ったとのこと。

 

以上。

 

【交通手段】大津港駅からバス20分(本数僅か。曜日限定)

【入館料】190円

【滞在時間】90分

【混雑度】★★★★(すぐ横に人)

【URL】

www.tenshin.museum.ibk.ed.jp