埼玉県立嵐山史跡の博物館
比企郡には60以上の城跡があるらしいが、それらをまとめて扱っているのが、この嵐山史跡の博物館である。
史跡たちのうち、杉山城・菅谷館は「続100名城」に選出されたらしい。
おめでとうございます。
入館します。
外から見た感じのとおり、2階建てのわりと大きな建物。
と思ったら、展示室は奥の小さめの別館であった。
大部分は博物館の執務室かいな。
まぁ入館料100円だからね。
受付で支払い、中へ。
さっそく誰かさんが待ち構えていますが。
畠山重忠さんです。ご存じ(棒)
畠山氏は、もともと深谷の畠山という土地に住んでいたが、この重忠のときに引っ越してきて菅谷館を建てたと言われている。
坂東平氏の一つであり、この人たちは源氏に従っているのが通常なのだが、父である畠山重能は平治の乱にてアッサリ平氏に鞍替えしており、源平合戦の時は当初平家方。
だがそのあと源氏側に戻ってきて、平家追討・奥州藤原氏征伐にて畠山重忠はガンガン武功を立てるなどで、頼朝に重用された。
掌クルー感がとてもするが、味方になると非常に強力ということで、まぁ許してクレメンス。
しかし頼朝の死後に御家人同士での争いが激化。
まず息子である畠山重保が、平賀朝雅(北条時政の妻の親族)と口論になると、平賀家は畠山の謀反を北条時政に訴え。
その息子はおびき出されて斬られてしまう。
鎌倉がドタバタやっているので、何かあったかと心配した親父の方は僅かな手勢を率いて鎌倉に向かう。
その途中の二俣川で、北条の大軍に迎え撃たれて敗れ、畠山氏は全滅した。
というわけで北条の汚い手にかかって粛清された人というイメージが付いており、同情票から人気が高い。
吾妻鏡など古文書でも、もれなく良い人扱いで書かれているそうな。
良い人扱いだけでなく、伝説もいろいろ付いている。
馬を担いで険しい道を歩いたとか、相手の肩を掴んだだけで骨まで粉々にしたとか。
ボブ・サップもびっくりだな、リンゴどころじゃない。
続いて、菅谷館ほか周辺の城跡について。
武蔵嵐山駅の周囲にポコポコとあるようです。
これら城跡がメインで登場するのは、やはり戦国時代のこと。
扇谷上杉と山内上杉が争っており、北条も絡んできてごちゃごちゃした地域なので、各勢力による陣取り合戦が多発。
また近くに河越城がある影響も。
例えば菅谷館は畠山重忠が亡き後だいぶボロくなってしまったようだが、扇谷上杉家の河越城に対する抑えの城として、山内上杉家が再興させた。
あとは周辺の城の代表として、杉山城と松山城。
続100名城に選ばれた杉山城は、急峻な地形とか複雑な形状など高度技術が使われているらしいが、誰が作ったのか分らんらしい。
また松山城も上杉・北条の争いで所有がコロコロ変わっていた。
戦国が終わって1590年に松山藩が設立されたが、藩主が浜松に異動になり、後任が無いまま川越藩に吸収されている(憐憫)
そして板碑ごろごろ。
中世のお墓代わりの碑である。
石材を板状にして、ナムナム的なことを彫ってある。
埼玉では3万以上見つかるなどやたら多いが、石材の原産地が秩父という近場にあったからだろう。
もちろん川を船で運んできたと思われる。
ビッグサイズ。
よくみると仏さまが彫ってある。
以上で館内はおわり!
それでは外に出て、菅谷館を見に行こう。
博物館の裏庭を抜けて、遺構の方へ。
遺構の復元図が途中にあった。
ぜんぶ回ると疲れそうですね(老並)
この遺構は戦国時代に改築されたものをベースにしている。
畠山重忠の時代に館がどういう形状をしていたかは記録が無いので、想像にてお楽しみください。
重忠くんの銅像があります。
階段を登って
あれ、思ったより太公望みたいな格好している。
相手の肩を掴んだだけで粉砕骨折させるような怪力マンには見えませんね(すっとぼけ)
遺構を全部回る気しないけど、せめて本丸だけは見ましょうかね。
着きました、本丸です(迫真)
周りはちゃんと堀とかあるから、多少はね?
一番奥に何かそびえたっている。
見るからに慰霊堂だが。
この地域における西南戦争以降の戦死者を祀っているらしい。
ずいぶん古くまで遡ったものだな、その時点までの記録があったのだろう。
ナムナム。
以上。
【交通手段】武蔵嵐山駅から徒歩15分
【入館料】100円
【滞在時間】博物館は30分。
【混雑度】★★★(ちらほら)
【URL】