旧横浜ゴム平塚製造所記念館
平塚の八幡山公園には、明治時代に建築された洋館がある。
別に山ではない。平地。
1912年に、日本火薬製造(株)により建築された。
この会社は日本海軍と、英国の火薬製造系3社による合弁。
日露戦争では日英同盟により英国から火薬を輸入していたが、(国産しないと)いかんでしょ、ということで設立された会社である。
この平塚付近は広大な国有林があったが、もはや持て余していたので、火薬製造所を建てるのに丁度よかった。
洋館は右側で、管理棟は左。
その真ん中に入り口がある。
イギリス人技師を招いての火薬製造所の建設工事は1905年から始まり、よって彼らイギリス人のための住宅や食堂も作られた。
1911年に火事でそれら建物がボンバーしてしまったので、新たに建て直し。
そのうちの1棟が、この洋館だと言われている(伝聞)。
まず入って左手の部屋。
天井が結構高いので音響が良く、市民の音楽ホールみたいな形で利用されている。
実際この日も合唱団がワーワーワーしていた。
入口右手の部屋も、貸出用展示室な様子。
左側パネル落ちてるけど、多少はね。
なにか置いてある。
ハッシュタグっぽいのが印字されたシール。
hiratsukagood(be動詞ガン無視)。
このハッシュタグでインスタに平塚の写真を上げて、地元を盛り上げよう運動らしい。
地元のひと頑張ってクレメンス(旅行者並感)
奥右手の部屋は、洋館の資料室。
サイズ控えめ。
模型。
1919年から海軍に接収され、製造所一帯は火薬廠に。
本館は海軍将校の親睦団体「水交会」の娯楽施設として使われる。
しかし娯楽施設にしては小さいよなぁ。
ビリヤード1台はあったとされている。
ただ過去の写真を見ると、かつての規模は大きかった模様。
建物からはく離したと思われる残骸たち。
火薬廠の図面。
洋館の位置は、左下の矢印のあたり。
この①の場所にあった。
しかし海軍の施設だけあって巨大な敷地である。
最後の部屋は応接室。
この部屋は洋館って感じがする。
パンフレットにも「洋館の建築的魅力はこの部屋に尽くされている」とある。
他の部屋ェ。
ただ暖炉はフェイク。
奥のカーテンは1950年頃から現存するらしい年代物。
ソファーには座れます。
カーテンの裏を見ると、紐が付いている。
窓は上にあげて開けるという、JRの古い車両方式だが、そのときにこの紐が上下動する。
紐の反対側には、窓と同じ重さのこんなパイプが付けられている。
つまり紐の片側に窓、もう片側に同じ重量のパイプがあるので、窓を上げても落ちてこないということ。
何を言っているのかわからねえと(以下略)
海軍時代の応接室の様子。
戦後は米軍に接収された後、タイヤメーカーの横浜ゴムに払い下げられ、これまた応接室などに使われていた。
2004年に横浜ゴムから平塚市に寄付があり、それを解体して八幡山公園に再築して現在の洋館になっている。
応接室の窓は外から見ると、他の窓と違ってデザインが施されている。
wikipediaによると、横浜ゴムさんサイドは「もう老朽化しているから壊したい」状態だったらしいが、市内で唯一の明治時代建築であったため、平塚市側が寄付を要請したとのこと。
引き継いだ時にはボロボロだったらしいから、解体移築する際にダメになっている材料は処分して新しいものに取り換えたので、明治建築の割には建物が古くない感じがして、正直ありがたみが薄れるところ(無茶ぶり)。
隣には巨大な慰霊碑があります。
横浜ゴムの建物としてより、火薬製造所や火薬廠としての存在の方が大きい気がするのだが、それでも「旧横浜ゴム」と正式名称に企業名が入っているのは、横浜ゴムさんサイドからの寄付の条件だったのかしら。
以上。
【交通手段】平塚駅から徒歩15分
【滞在時間】20分
【混雑度】★(誰もいない)
【入館料】無料
【URL】