時宗総本山 遊行寺(清浄光寺)
正式名称は「清浄光寺」であるが、遊行上人と藤沢上人が同じであるため、この藤沢の寺が遊行寺と呼ばれるようになったらしい。
何を言っているのかわからねーと思うが(以下略)
寺に向かってのぼっていく参道。
時宗は一遍が始めたものだが、本人は諸国を歩きまくっていたので、教団を作る気はなかった。
一遍亡き後に、弟子の他阿(たあ)という人が教団としてまとめて、相模原の当麻に拠点として無量光寺を開いた。
そこそこ長い参道を歩くと、開けたところにでて、目の前に本堂。
2代目他阿のあと3代目が続き、そして4代目のときに跡目争いである。
吞海(どんかい)という人が諸国遊行を終えて無量光寺に戻ろうとしたら、違う奴がすでにBOSSとして居座っていたと。
困った吞海くんは、偶然藤沢で領主をやってた兄貴(俣野氏)に頼み、その領地内にあったボロ寺を改修して、清浄光寺として開山した。
こうして無量光寺(当麻道場)と、清浄光寺(藤沢道場)として時宗は2つに分かれ、争ったり争わなかったりするのである。
ただ基本的には、無量光寺が鎌倉幕府や後北条氏など政権側からの庇護を受けていたのに対し、清浄光寺は敵対勢力であった。
北条早雲に睨まれるわ、戦火で寺が焼かれて100年近く再建が認められないわ、本尊が150年近く違う寺に移されて返ってこないわで、痛いですねこれは痛い。
しかし1631年に江戸幕府により、清浄光寺は時宗総本山と認められるのである。
まさかの大逆転。
なお無量光寺の方はいつのまにか浄土宗の影響が強くなり、トップたる上人まで浄土宗から出向で来るなど、もはや系列会社化してしまう。
明治時代には時宗からの独立を図ったようだが、やっぱやめて結局残留することになったとさ。
手水の口は定番のドラゴンである。
あと遊行上人は全国を説法しながら踊り歩く人なんだけど、引退して藤沢に戻ってきたら藤沢上人として定住し、また違う人が遊行上人になるらしい。
だから遊行上人と藤沢上人は別個でいたんだけど、明治時代になると藤沢上人が随時諸国を歩くということになり、だから遊行上人=藤沢上人になった。
やたらデカい銀杏の木。
樹齢700年だって。
小規模ながらも豪華な建物は、ひぎり地蔵。
ひぎりとは「日限り」であり、日を限って参拝すれば良いことがあるということ。
だから毎日お参りしてはダメなのである。
建物の裏には地蔵がぞろぞろ。
ミニチュア版の鐘楼。
本堂へはスロープも付いている。
中には立ち入れないので、外から眺めるだけ。
本堂向かって左側には、とくになし。
右側に回ると、いくつかある。
これは永代供養墓。
犬猫の供養もある。
ちなみに犬猫以外のペットでも良いらしい。
水子供養。
戻って左側に行くと、寺務所である。
明治時代に作られたこの門は、徳川家の手に寄るという。
葵の紋が入っている。
門をくぐった寺務所のあたりは、庭園チックになっている。
池もある。
生類憐みの令は犬に留まらず魚類や昆虫まで保護の対象としたが、遊行寺の担当は金魚であったらしく、この池には金魚が放たれたそうな。
今度は本物の鐘楼があった。
しかし南北朝時代に作られた貴重なものということで、撞くことはできない。
どうしても撞きたければ、さっきのミニチュアのところへ行け、ということであろう。
伝承ではあるが、徳川家康の祖先がこの寺と接点を持つという。
室町時代に得川有親という人がこの寺で時宗の遊行僧になり、三河の国の松平に落ち着いて、その子孫が家康なんだと。
この有親さんは僧の時に「徳阿弥」と名乗っていたので、家康は元の名字の「得川」を「徳川」ともじったのであろうか。
ほんとかどうかは知らんが、さっきの門も徳川家の紋章が入っていたし、遊行寺が火事で燃えたときも江戸幕府が資金を下賜するなど、徳川さんサイドとしては割と信じていたようだ。
これが、その有親さんが信仰していた宇賀弁財天である。
明治時代に焼失したのを再建してこれらしいが、昔はもっとデカかったんだろうか。
さっきの弁財天は寺の左奥だったが、右奥の墓地のあたりに歴代上人の墓がある。
しかし中に入れないっぽいので、外から眺めるしかできない模様。
最後に、ここには宝物館がある。
通常は400円だが、企画展の時は金額が違うようだ。
このときは、江の島の縁起や神話について書いた絵巻物を展示してた。
以上。
【交通手段】藤沢駅から徒歩15分
【入場料】宝物館は400円。それ以外は無料。
【滞在時間】45分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】