C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

川越城

 

川越城です。

川越駅本川越駅から歩いてくると20分~30分はかかる。

観光地周遊バスとか出ているので、それを使おう。

 

 

川越城は1457年に太田道灌が築城しましたが、そんな古いものが現存しているわけはなく、ここに建っているのは1848年のものです。

ただ復元では無く、れっきとした本物なので価値は高いというわけ。

 

 

入場料は100円。

安いなあと思うのだが、その理由はあとで分かります。

 

とりあえず廊下を奥に進む。

 

 

最初の部屋は、使番詰所。

 

・・とくに説明が書いて無いので分からんのだが。

「使番」というと文字通り伝令・使者な役割りだが、幕府においては監察官として諸国を回る役職でもあった。

ここでは前者の意味で、領内や他の藩からの使者の待機室みたいな感じじゃないのかね、たぶん。

 

 

次は、番抜・老体詰所。

これまた説明がないですけど、あれですかね、自分で考えろというのが川越藩の方針ですかね。

 

ググったところ、

番抜というのは、「使番」みたいな「番」を抜けた人=退職者。

老体は文字通り老体で、これも退職者。

 

退職したけれど、何らかの役割を与えられた人々の部屋かもしれない。

現代で言うと再雇用枠である、年下の上司と上手くやってくださいね。

 

 

物頭は足軽大将のことなので、歩兵隊長の部屋である。

 

・・しかし、どの部屋も変わり映えしないなぁ。

1部屋10秒くらいで終わってしまう。

 

 

南側に来ました。

ここは「明治棟」といい、まんま明治時代に増築された部分。

 

川越城明治維新を持ってお取り壊しになったが、この地域は川越県・そのあと入間県の管轄となって県庁が設置されたので、庁舎として城の一部分を残して利用した。

その庁舎時代に増築されたと考えられている。

 

 

なお役所として使われた後は、タバコ工場→武道場→学校→武道場とたらい回しにされ続け、1967年から城跡として公開されましたとさ。

 

そんな明治棟は、入城して最初の展示室となっています。

 

 

ただ展示されているのは、川越城修復の模様である。

城の歴史とかは特になし。

そんなものは市立博物館であらかじめ学んで来いということでしょうか、不勉強ですみませんでした。

 

 

修理の時に取り外した、屋根の下地。

明治時代の建築当初からのものらしい。

はえーさっすが太田道灌(間違い)

 

 

庭もありますが、立ち入り禁止です。

きっと白砂の上で成敗されてしまう。

 

 

では江戸時代の部分に戻ります。

 

 

ここは第二展示室。

 

 

子供の落書きでは無く、川越城の見取り図です。

赤い枠線が入っているところが、現存部分ですね。

いまは右下の建物にいます。

右上は家老詰め所。

 

第2展示室もこれくらいでおしまい。

 

 

さっきの旧図だと家老詰め所は離れた位置にあったけど、移築して近づけたので、渡り廊下で繋がっています。

 

 

ところで川越城には本丸と二の丸が元々あり、本丸は将軍来訪時に使う御殿・二の丸は実際の仕事をするところ。

しかし18世紀初頭に書かれた文書によると、本丸に関する記述が無い為、「本丸は取り壊して二の丸オンリーにしたのではないか」と考えられている。

 

将軍の接待所、潰しちゃったんですかね。

お金なくなった?

 

 

二の丸も1846年に火事で燃えちゃったので、もともと本丸が建っていた空き地に、この本丸御殿を1848年建てましたとさ。

城主の住まい・仕事場も備わった巨大なオフィス兼ホームにリニューアル。

 

 

そして家老が実際に仕事をしたり常駐していたのが、この家老詰め所なんだけれど、展示品はやっぱり何もないな!

これではただの和室である。

 

 

庭の風景はちゃんと整備されています。

 

 

いちおう家老っぽい人形が地図を見て睨めっこしてますけどね。

しかし展示品の少なさである。

これなら確かに、入場料100円だわ。

 

 

庭とは反対側に出ると、生け垣が盛大に覆っています。

ここは大名様がおられる場所なのだから、農民に外から見られては困るのです。

 

 

さっさと廊下を戻ります。

 

 

最後に大広間。

来客の待機場所として使っていたそうな。

 

藩主との対面は「大書院」という部屋で行いましたが、解体されてもう無いよ。

 

 

襖には絵が描かれているが、もうボロボロである。

修復してあげてどうぞ。

 

 

埃取りかと思ったら、これ槍を入れる鞘だそうです。

それも日本三大名槍の1本、御手杵(おてぎね)の槍。

 

下総の結城家が所有していたが、そこに徳川家康の次男 秀康が婿入りして槍をGET。

なお結城家は秀康の後、子供の直基に継がれたが、直基は苗字を「結城」から「松平」に変えている(前橋松平家)。

 

 

その前橋松平家は、1767年から100年に渡って川越藩主をしているのだが、大名行列の際にこの鞘を見せびらかして歩いており、絵図にもそれが残っているため、レプリカを作ったんだとさ。

川越の春祭りでも使用されている模様。

 

ちなみに本物は戦時中に焼けてしまいました、残念。

 

 

 

と言うのを見て、おしまいです。

 

しかしあまりにも展示が無く、和室が並んでいる程度である。

市立博物館では様々な展示を扱っていて城に特化している感じでは無いので、川越城の方で城メイン展示をやればいいのにと思いました(客並感)

 

あとはボランティアのガイドさんに喉が枯れる勢いで説明しまくってもらうか、入館チケットを焼き芋つきにして500円で売ろう。

 

以上。

 

【交通手段】川越駅本川越駅から徒歩30分、バス20分

【入館料】100円

【滞在時間】20分

【混雑度】★★★★(すぐ横に人)

【URL】

museum.city.kawagoe.saitama.jp

 

 

新しき村美術館

 

ここは毛呂山町にある、「新しき村」です。

何を言っているのか分からないかもしれませんが、ここは新しき村なのです。

新しい!

 

(公式HPより)

 

真面目に話をすると、明治~昭和にかけて活動した小説家 武者小路実篤が提唱したコミュニティです。

自ら住居を建て、食べるものを作り、自然の中で和気あいあいと自給自足な生活をしつつ、芸術的な創作活動も行おうというもの。

 

最初は宮崎県にて1918年から15人の村民により始められたが、そこがダム建設で水没してしまうことになり、1939年に毛呂山町に移ってきた。

なんで毛呂山にしたのかは、知らん。

分かったら追記します。

 

2018年時点でも、8名の村民が居住しているとのことである。

 

 

そのコミュニティの中に、武者小路実篤による絵画を展示する美術館があるので、そこに行った。

武者小路は小説家であるが、作品の中に絵画の話が頻繁に出てくるほどの愛好家であり、自身も製作していた様子。

 

 

ところで美術館の行き方なのだが、徒歩で行く場合、グーグルマップだと「武州長瀬駅から徒歩40分」と出る。

これは罠である!ワナ!

 

まずは上のマップで、Aの地点まで行ってほしい。

A地点の南側にうっすらと点線が続いていると思うのだが、これが農道となっていて、美術館まで繋がっている。

おそらくこの農道は私有地(新しき村の所有地?)であって公道では無いからマップ上出てこないのだろう。

 

 

美術館側もその問題は把握しているのか、武州長瀬駅からの道中、ところどころに案内看板が出ております。

しかし毛呂山町キャラの名前「モロ丸くん」、もうちょいどうにかならんかったかね(嘆息)

 

 

上掲マップのA地点はここです。

一瞬進入をためらう農道ですが、看板は指さしているから堂々と通りましょう。

 

 

周囲は完全に現代的な住宅街と化しているが、ここからは田畑風景である。

村の建設当初は、こんな風景がずっと広がっていたのかもねえ。

 

 

農道を抜けて、普通の道路っぽいところに出た。

道は二手に分かれているのだが、正解はこちら側です。

 

 

 

林の中を抜けていくと、最上部に載せた写真のところへ出ます。

武州長瀬駅からは20分程度。

40分も掛かりませんがな、グーグルマップめ。

 

 

美術館の外には像が飾られているが、村人による作品なんだろうか。

 

なお会員については、村に実際に居住する人々のほか、「居住はしていないけれどお金は出資する」村外会員もおります。

作品は村外会員によるものもあるそうだ。

 

 

ニワトリくん。

村は最盛期で60名の居住会員がおり、養鶏で3億円もの収入を稼いだ時期もあったそうな。

 

 

では中に入りますか。

入場料は200円。

 

 

門の上部には武者小路の揮毫が。

ググったところ論語の一説のようで、「(学問を)楽しむ者は、一番上達する」的な意味があるそうな(意訳)

 

 

楽しむ以前に、扉しまってるし中が暗いから、そもそも開いているのかどうか不安なんですが。

とりあえず貼り紙が出ているので、遠慮なく開けます。

 

受付の人もちゃんといました。

絶対居ないと思ってた(直球)

 

 

内部は美術館部分と、資料室部分に分かれているようです。

まずは資料室から。

 

 

本棚が4台ほどあり、ぎっしり本が詰まっています。

さすが、創設者の全集は揃えてるね。

 

 

全集にも色々なパターンがある様子。

というか、本棚のうち7割くらいは武者小路の著作で埋められている感じであった。

 

 

他の本も読みましょうね。

武者小路がハマっていたトルストイとかドストエフスキーがあるよ。

ロシアでは、文学があなたを愛好する!

 

 

宮崎時代を含めると、1918年から100周年を経過したわけだ、めでたい。

しかし村民の高齢化も進み、人数も減ってきてしまった。

 

そして ↓ の記事にある村民のインタビューを読むと、なんだか消えゆく感じがしますねぇ。

 

withnews.jp

 

 

 

とはいえ熱意がある村民もいた様子。

この棚には、武者小路のどの作品がどの本に載っているかを示す、索引カードが入っています。

 

 

武者小路の作品は、小説だけでなく随筆や感想、他の作家のための推薦文など細かいものも含めると、12,000点にも及ぶらしい。

書きすぎだよ。

 

それら全てについて索引カードを作っちゃった。

気合入り過ぎだよ。

 

 

奥にはTVコーナー。

 

 

壁に掛けられているのは、ゴッホのひまわりの複製。

村外会員である実業家が本物を買い求めてくれたそうだが、その本物は戦災で焼失してしまった。

絵の写真は撮ってあったので、それをもとに復元したという。

 

しかしギラギラしていて恐ろしいヒマワリである。

「花壇にこんなヒマワリが居たら嫌だ」大賞にノミネート。

 

 

ビデオはご自由にご鑑賞くださいとあるんだけれど、肝心のビデオが無いよ。

 

 

メモ書きをなんで壁に貼ってるのかと思ったら、これ武者小路の筆だった。

 

ちなみに武者小路自身は、33歳で宮崎の村を始めたときは居住していたが、40歳で離村して以降、一度も住んでいない。

だから毛呂山の方は、村外会員に留まっている。

あんた言い出しっぺでしょうが。

 

なので村外会員として、時たま居住会員に手紙を送っており、それを残してあるというわけ。

資料室は以上。

 

 

(公式HPより)

 

美術館の方は撮影禁止な気がしたので、画像でお楽しみください。

武者小路による絵画が20点ほど、遺品が10点ほど飾られていたかな。

遺品は徳利とかお茶碗だった、だいたい皆そうだよね。

 

調布市武者小路実篤記念館HPより)

 

武者小路の絵画はこんな感じ。

たしか全部が静物画だったと思う。

野菜や花を、背景真っ白でまんま描いていて、そこに詩句を加えてある。

 

(同上)

 

特にカボチャや玉ねぎが多かったな、気に入ってたのだろうか。

館内には志賀直哉であったり、画家 中川一政からのお褒めのコメントも掲載されている。

 

中川によると、「端正で正面からかいて」いるのが良いのだそうな。

確かに、真正面からどっしりと向き合ってる感じがするよね。

小学生ってこんな絵描くんじゃないかな

 

 

以上。

 

【交通手段】武州長瀬駅から徒歩20分

【入館料】200円

【滞在時間】30分

【混雑度】★(誰もいない)

【URL】

atarashiki-mura.or.jp

 

 

狭山市立博物館

 

狭山市の博物館です。 稲荷山公園駅から徒歩5分の位置にある。

 

 

 

 この公園はわりと規模が大きくて、季節がら花見会場になっており、元気にはしゃぐお子ちゃまや、昼間から飲んだくれるオッサン方の姿が見受けられました(報告)

 

 

入館料は150円。

 

 

展示室はまず企画展から始まるのだけれど、らせん状に1F→2Fへ続く通路に掲示されています。

シャレオツな構造にしてますねぇ。

 

 

2Fに上がって常設展示室に向かいます。

 

 

展示室の手前に茶室があるよ。

狭山には狭山茶があるから、その関連だろうか。

 

 

展示室でございます。

けっこうな規模だね。

 

 

最初に挨拶するのはマンモス君・・ではなくて、もっと小型であるアケボノゾウ。

入間川の沿川で見つかったらしい。

海外では発見されておらず、JAPANオリジナルとされている。

 

 

アケボノゾウの後ろにはステンドグラス・・ではなくて、なんだ?

 

 

どうも市内にある植物の写真を細切れにして、タイル状に貼り付けている様子。

 

 

ちなみに、どこの写真が何を示しているかは、全部この表にまとめられているから、興味がある人は参照してね。

細かすぎて伝わらない熱意である。

 

 

その手前に並べられているのは、昆虫の標本です。

うぎゃー。

 

 

まぁチョウチョとかクワガタとか、人間にもフレンドリーな外見勢が主なので、多少はね。

 

 

打って変わってこちらには、古代生物が描かれている。

ぜんぶ狭山市内に居たのかな(すっとぼけ)

 

 

石炭紀の生物たちです。

 

 

なんとこの時代にはもうゴキブリがいる。

滅んでおけばよかったのに(真顔)

 

 

さて、ここからは歴史ネタです。

縄文土器の数々。

 

 

祭祀ものかと思われる人面把手は、たいへん憎らしくて良い表情をしている。

 

 

竪穴式住居の模型です。

 

 

縄文人の模型もあるよ。

なんかTシャツと半ズボンみたいなの着てるけど、ずいぶん先進的な縄文時代だね

 

 

より盛大な模型はこちら。

 

 

集落のジオラマです。

 

 

颯爽と駆け抜ける兄貴。

 

 

山からの風景。

なんだか広大な感じで撮れてしまった。

 

 

これは「敷石住居」の復元。

床に石を敷きならべる住居があったらしい。

 

それ床ぼこぼこ過ぎて足や尻が死んでしまうのでは?と思うのだが、建築数がごく僅かなことから、祭祀用では無いかと考えられている。

そりゃそうでしょうなぁ。

 

 

奈良・平安時代の住居に飛びました。

庶民の家は侘しいねぇ。

 

 

これは井戸の模型。

ぐるぐると螺旋状に地下へ掘っているが、これは下に向かって真っすぐ掘る技術が無かったから、と言われている。

 

 

ずいぶん下の方まで掘っているが、水が出にくい土地だったのだろうか。

西東京市の方でも似たような井戸があって、あちらも水が不足している地域だった。

 

 

蔵骨器といい、9世紀の骨壺。

やけに大きいし、住居跡から見つかっているから、1人分ではなく、家族・集落単位で骨を入れているのだろうか。

 

 

それにしてもジオラマが多いねぇ。

 

 

稲は1本1本細かく出来ており、製作者の気合を感じられる。

 

 

古銭ぞろぞろ。

寺院跡で発掘された。

こんなに金銭をため込んでいるなんて、やはり神社仏閣は打ち壊すべきである(一揆勢)

 

 

薄暗い空間に来たぞ。

 

 

ボードっぽいものが仕舞われている。

 

 

絵と文字が書かれているが、薄くて読めない。

 

 

傍の机がライトで照らされているので、そこにかざすと見えるという仕組みである。

・・この仕組み、要りますかね(横着並感)

 

 

刀です。

室町時代頃に話が進むが、入間川では砂鉄が取れたので、それを使った鍛冶業が発展した。

 

 

そういや常設展示室の外にも、見事な刀が飾られていたな。

戦国時代に北条氏が狭山を治めるようになると、鍛冶集団は税金を一部免除される代わりに、槍の製作を命じられたそうな。

また銅や鉄を用いた仏像を作るよう、寺社から依頼を受けて生活していた鍛冶集団もあったとさ。

 

 

鉄くずのあまりは「金屎」と呼ばれたようだ。

ひどい言われようだな(憐憫)

 

 

農家住宅です。

ずいぶん広い土地を持っているようで、羨ましいねぇ(僻み)

 

ただ江戸時代になると、狭山は尾張藩の鷹場とされ、鷹狩に来る大名連中を迎えるための費用を負担したり、家の建て方や木の伐採に細かいルールが課せられて面倒であった。

 

 

農機具いろいろ。

 

 

このジオラマは、お茶の製造ついて。

狭山茶ネタですね。

埼玉には中世「河越茶」「慈光茶」というブランド品があったが、どちらもバックアップをしていた寺院が戦国時代を経てボロボロになったので、お茶製造が途絶えていた。

 

その茶の伝統を復活させるべく、19世紀前半に農家が立ち上がって、完成したのが狭山茶でしたとさ。

明治時代には海外輸出も行って、知名度を上げたよ。

 

(茶の葉を摘んでいる風景)

 

という茶の歴史は、お隣の入間市にある博物館ALITで見たのでした。

あちらはお茶展示だけで1フロアまるまる使っているが、名前を冠している狭山市は1部分の展示に留まっている。

これはお茶族議員からの突き上げ待ったなし。

 

 

摘んだお茶を蒸しております。

江戸時代初頭では茶葉を炒るのが一般的だったが、18世紀前半になって永谷園の先祖が蒸す方法を考案し、香りと風味をより爽やかにしたそうな。

 

 

冷ました葉を大きさごとに選別し、揉んでおります。

 

 

あとは壺に保存して、出荷である。

めでたしめでたし。

 

 

農家の中を覗いてみよう。

 

 

囲炉裏です。

 

 

これはきっと熱燗をつくる器具だな。

そうにちがいない(決めつけ)

 

 

置いてある徳利は「帝松」のほか、「部長の酒」「社長の酒」とかいうキワモノ気味な銘柄を出している松岡醸造ですかね。

日本で最も硬度の高い水で酒造りをしているという酒造であり、一風かわった味を出していると私は思っている。

 

ただこの酒造、狭山市じゃなくて小川町なんだよなぁ・・

 

 

盆栽みたいなものに白い団子?を突き刺している。

この団子はたぶん蚕を示しており、養蚕が上手くいくことを願う品じゃないかな。

 

入間市博物館にも似たようなのがあったからね。

なんだか復習をしているようである。

 

 

そして養蚕とくれば蚕の写真です。

うぎゃー(2回目)

 

 

養蚕についてもジオラマにしております、やっぱ好きなんスねぇ。

 

 

宿場町の模型。

日光街道脇往還が通っていたとのことで、八王子~行田~羽生~佐野と続いて、日光へつながる日光例幣使街道にぶつかる。

 

 

 

wikiに、現在版復元マップが載っていた。

わかりやすい。

全部の街道について、誰か作ってくれないかな(投げやり)

 

 

街道沿いと言うことで賑わっております。

特に結婚式などのイベントもの。

 

 

これが披露宴で出される食事、豪華だねえ。

嫁を迎えた家で行い、その家の女性たちが料理するそうな。

〆には手打ちうどんが出されたようです。

 

 

入間川の水運に関する展示。

何を運んでるかと言えば、飯能など山地で採れた材木である。

商品自体を筏にして、江戸まで搬送します。

 

これ、帰路どうすんのかね。

歩いて帰ってくるのかしら。

疲れそう。

 

 

そんな面倒くさがりなアナタに朗報なのは、電車とバスが通ったことです。

よかったね。

 

 

電車は1895年の話で、地元のマネー持ち達により、川越鉄道が敷設。

国分寺~川越間とのことなので、今の西武国分寺線新宿線の一部、と思っておけばいいであろう。

 

(丸慶自動車の乗車券)

 

バスは1926年から丸慶自動車が営業を開始し、入曽駅を中心にして川越や入間市駅方面に路線を伸ばしていた。

現在は西武バスに回収されております。

 

 

戦争が近づいた1938年には陸軍の航空士士官学校が作られたよ。

敗戦後にはアメリカ空軍に進駐されてジョンソン基地となり、全面返還は1973年。

現在では航空自衛隊の基地ですと。

 

 

もう終盤になってきたが、あとは狭山由来の商品についてである。

 

狭山には現在酒造は存在しないのだが、かつては「久星(きゅうぼし)」という大きな酒造があり、県内に幾つも酒造場を持ち、さらに兵庫の灘にも進出。

しかし1960年代頃に埼玉からは撤退し、灘に絞って「国冠酒造」として販売するようになった。

 

残念ながら1995年の阪神淡路大震災により蔵元が大打撃を受けて、そのまま廃業してしまったらしい。

 

 

酒瓶の隣には、バレーボール。

特に説明が無かった気がしたが、狭山市にボール会社でもあったのかな?

 

 

製品名は「入間ボール」ですけどね。

上部に「イルマボールイルマボールイルマボール」と無限ループで書いてあるのが、何となく狂気を感じる。

バグったファミコンの画面みたい。

 

 

思いっきり時代が前後しますが、馬車鉄道の大きな展示があります。

入間と飯能を結んでおり、1901年に開通して、1日15往復していた。

 

意外と本数あるな。

西武秩父線と良い勝負じゃない?(1時間に3本。うち1本は特急)

 

 

んで最後に、HONDAの車。

近未来型ですか?と思ったら、スポーツカーの上部部分だと。

紛らわしい!

 

そして特に説明が無いのだが、狭山にHONDAの工場でもあるのかな。

まぁいいや(雑)

 

 

以上

 

【交通手段】稲荷山公園駅から徒歩5分

【入場料】150円

【滞在時間】90分

【混雑度】★★★(ちらほら)

【URL】

sayama-city-museum.com

 

 

千葉市動物公園

 

 

千葉市にある動物園に来ました。千葉駅からモノレールで10分、動物公園駅で下車すぐです。

直立歩行できるレッサーパンダこと風太くんで有名になったところですね。

 

 

入場するとしばらくは森林の園路が続きます。

なかなか動物が出てこないよ。この日は10連休の初日だからみんな休んでしまったのかな?

 

 

5分弱で広場的なところに出た。

・・にしても人が少ないな。10連休なんですが。めちゃめちゃ混んでるかと警戒していたのに。経営大丈夫なのだろうか。

 

※ あとでニュース見たら、この日はディズニーもガラガラだったそうです。連休初日は混みあうだろうと考えてみんな自宅待機にしたのかな?

 

 

そして小雨が降っており、春とは思えない寒さである。

最初にお目見えしたのは、園内でも人気だというゴリラのゾーン。

ようやく動物が見れますね。

 

 

ゴリラさんです。・・なんか、奥の方ですごい寒そうに縮こまってますけど。

私の知っているゴリラと違い、非常に哀愁を漂わせている。

 

 

ひとまず空腹なのでレストランに行くことにした。

うーむ、あまり期待できない外観だな(直観)

園内にはもう一つカフェもありますけどね、ごはん系だったらこっちかな。

 

 

レストランというか食堂かな。食券システム。

外の客はまばらだったけど、ここには大勢の人が居た。座席数がそれほどあるわけではないので、動物園が混みあう日はかなり待ち時間が長くなりそうである。

混みあう日があるのかどうかは知らんが。

 

 

レッサーパンダラーメンとやらがあったので注文しました。600円。

味はあまり期待してなかったが、普通に旨かった。

海苔は千葉県産で、レッサーパンダの顔が描かれております。

 

 

さて、ここからどんどん動物を見よう。

レストランの周辺には「鳥類・水系ゾーン」があるので、まずはカモっぽいものたち(適当)。

しかし色んな種類のカモがまとめて入っておるな。動物音痴にはどれがどれだか分らんでござる。

 

 

この雄々しく立っている鳥は、このあと他の鳥を凄い勢いで追いかけまわして、檻内の雰囲気を騒々しくしていた。

発情期かな?

 

 

腹が減ったのか、外にある雑草にまで嘴を伸ばして食べております。

 

 

地面に穴が開いていて、丸っこいものが入れられている。

卵だろうか?にしては無防備な置き方だなぁ。

 

 

続いてオジロワシくん。

猛禽類らしく、猛々しい目つきである。

エサとしては馬肉や鶏肉のほか、ニワトリの頭を与えるらしい。なんでお頭付きなんですかね、スプラッターな気がしますが。

 

 

落ちている枝を咥えてウロチョロしてたのだが、巣でも作ろうとしてたのだろうか。

あと鳴き声は意外と高くて憐みを覚えさせるようなものであり、ヘタレっぽさを醸し出している。 

 

 

隣の檻にはヘビクイワシ。 アフリカに生息し、ネズミや昆虫・蛇を食べている。

足が細くて長い、美脚。

こちらも落ちている枝を咥えては、ウロウロしていた。巣づくりシーズン展開中なんだろうか。

 

 

エジプトハゲワシです。

 

園内ではときおり飼育員さんによる簡単なガイドが行われていて、この時はエジプトハゲワシの日だったのだ。

聞いてみると、日本ではこの動物園くらいしか扱ってないんじゃないか、とのこと。

なんでかというと「あまり派手さが無いから集客できない」からだそうな。悲しい。

しかも「エジプトにはわんさか居る」とのこと。まぁでも日本には居ないわけだから、仲良くしましょうね。

 

 

こちらはハシビロコウ君ですが、遠くの方に行ってしまって見えません(終)

 

 

仕方ないので写真でどうぞ。

名前通り嘴がとても広く、勇ましいようにも見えるし、どんくさそうにも見える。

 

 

漫画で解説がついている。

アメリカの動物園では、この大きい嘴でカモを捕まえてしまうらしい。

 

 

でも食べないらしい。

移動させるだけなんだと。

顔同様に不思議な生態である。

 

 

こちらのエミューっぽいやつ(違うかも)はちょうど飼育員さんがエサ箱を持ってきたところだった。

置かれた途端、他のものには目もくれずに、すさまじい勢いでガッつきだす。

食欲だけが生きている意味だと言わんばかりの家畜っぷりに、周りのお客さんも少し閉口気味であった。

 

 

トンネルの中に入るようです。

 

 

中には水槽があります。

泳いでいる人が居ますが、ガラスがスモーキーもとい曇っているせいで全然みえないのです。10連休前に掃除してほしかったところですな。

 

 

トンネルの上に上がってきました。園内唯一の水生動物ゾーンである。

さっき泳いでいたのはアシカだったのね。

 

 

岩の上でぐうたらしているやつも居ますがね。

 

 

ペンギンさんもいるのですが、こちらは隅っこの方で大量に固まっており誰も泳いでいない。寒いからだろうか。でも君ら寒いとこから来たのでは。

 

 

しかしペンギンゾーンって言ったら水族館では人気箇所だと思うんだけれど、ご覧の通り、人っ子一人いませんや。

収益的にたいへん不安になる光景である。

 

 

次は広々とした草原ゾーンです。アフリカの動物たちを同居させております。

 

ダチョウと、隣にいるのは・・シカか?

ダチョウと鹿のコラボ。なんで鹿なんだ。アフリカに居なくないか。

「ダチョウを見て、数秒以内に鹿も見たい」という需要の客でも居るのでしょうか。

 

 

こちらはフラミンゴの池。

フラミンゴといえばむかし行川アイランドという施設があったのだが潰れてしまったので、フラミンゴ欲が抑えきれない千葉県民はここに来ればいいと思うよ。

 

 

バクはお休み中のようです。

展示板だと「14時以降なら起きている」ってあったんですけどね、14時過ぎててもこんな感じでした。

君も祝日の気分なのかな?

 

 

それにしてもバクのゾーン相当広いんだけれど、このゾーンに1匹しか居ないのよね。

1匹でここ使いたい放題とか、ずいぶんな豪邸っぷりである。

それとも他にバクは居るけれど、休業中なのかしら。

 

 

カンガルー。なぜだか3匹横並びになっている。

1匹だけカメラ目線になりました。

オッスオッス!

 

 

ぐるーっと回って、さっきのダチョウ&鹿ゾーンの裏手に来ております。

よくみると鹿じゃないな。「シタツンガ」という、ウシ科の方々らしい。牛でした(水曜どうでしょう風に)

 

(シタツンガのオス)

 

wikipediaで画像を見る感じ、園内に居るのはどうもメスらしい。

オスはこれ。ぜんぜん鹿じゃなかった。ヤギのでっかい版。

 

 

ヤギっぽいのも居ましたが、正確にはシロオリックスだそうです。

野生では絶滅したとされている、貴重な動物。崇めましょう。

野球のオリックスファンは世界に3人しかいないといわれているので、たぶんシロオリックスのファンの方が多いと思います。

 

 

草原を過ぎると荒れ地に出くわした。

客が少ないからついに手を抜きはじめたのだろうか。

 

 

と思ってたら、穴の中からなんか出てきた。ミーアキャットである。

見た目の可愛さから、園内でも人気の動物に入るらしい。

ただあまりにもヒョコヒョコ動き回るので写真を撮るのが難しい。これだって撮るのに5分くらいかかった気がする。ステイ!ステイ!

 

 

こちらはライオンゾーンです。

もともと千葉市動物公園は希少な生物を扱うのがメインで、大型動物は少なかったそうなのだが、「大きな肉食動物を置いてほしい」要望が大きかったということで、2016年に新設されたコーナーである。

・・お客さん少なそうですけど、これ以上コーナー増やして大丈夫?

 

www.city.chiba.jp

 

気になったので軽く調べてしまった。

2014年に千葉市動物公園が発表している『リスタート構想』なる文書がある。

動物園は1985年の開園時から来園者数が右肩下がりになっているということで、どうにかしましょうねという内容です(雑)

 

その文書によると、経常経費に対する収入の割合は30%しか無いらしい。めちゃめちゃ赤字じゃないか!残りの7割は税金つっ込んでますということ。

ただこれは他の公立動物園でも同じで、上野動物園ですら収益は50%程度だそうだ。

動物園って明らかに金かかるよなぁ。公立施設だと入場料も高くは出来ないので、止むを得ないところである。

 

(ガラス越しに間近で見れるのがセールスポイントです)

 

なので入場者を獲得する改革案のひとつとして、ライオン誘致が行われたということ。

2016年に多摩動物公園から2頭移籍させてきました。

だから2頭いるはずなのだが、このとき居たのは1頭だけであった。もう1頭は休暇中かしら。

 

 

カワウソ。

ちょうどエサやりの時間であり、飼育員さんが小魚の入ったバケツを抱えているところ、3頭が身構えて待っております。

 

 

見ての通り、3頭のうち2頭が固まっており、1頭が離れた位置にいる。

彼らは全員兄弟なのだが、2頭vs1頭で仲がよくないそうな。

 

 

エサであるドジョウを飼育員さんが投げ込むと、一斉に2頭は水の中に潜って追いかけていくのだが、残りの1頭はなかなか動かない。

対立している2頭を恐れて、水中に飛び込んでいけないようだ。

 

 

エサやりの途中で、喧嘩が始まってしまった。あらあら。

2頭が一緒になって、1頭をブロックの中に追い込み、「キーキー」とけたたましい音を立てて威嚇している。

 

 

飼育員さんがエサを投げ込んで2頭の注意をそらし、包囲攻撃から解放されたものの、攻撃された子は足を怪我したようで、しばらく木に足をすりつけて動けなかった。

かわいそう。

 

まさかカワウソを見に来て、いたたまれない気持ちになるなど思いもよらなかったのである。動物界は厳しいねえ。

 

 

暗い気持ちになりましたがレッサーパンダを見て癒されましょう。

直立歩行の風太君が有名ですが、これは別の子です。立つつもりは無さそうです。 

こちらもヒョコヒョコ素早く動き回るので撮影の難易度が高く、5分くらい掛かりました。

 

 

風太くんはまだ存命しております。しかし彼ももう高齢になってしまったので、近年ではケース内でぐうたらするのが常になった模様。

レッサーパンダの寿命は15年~20年くらいだそうだが、フウタ君は2019年で16歳になるので隠居したいんでしょうね。

 

 

このとき展示されていたのはさっきの2頭だけですが、レッサーパンダ自体はいっぱいいるようです。日替わりで勤務しているのだろうか。

 

NEXTフウタ君がこの中から出現して動物園を盛り立てて欲しいところだが、もう「2本足で起立」では客もなかなか来ないと思うので、ジャンピング土下座とかトリプルアクセルなど奇抜芸を飼育員さんも仕込んでほしいところ。

 

 

子供動物園というエリアに来ました。動物と触れ合える趣旨の場所だと思います。

 

しかしまたペンギンか、さっきのと被ってますね。

それも水槽が空っぽにされている。なんだ、掃除中なのか?開館時間中にやるものなんでしょうか。

水がないせいか、ペンギンたちが困ったように右往左往しているさまが面白かった。  

 

 

テンジクネズミという、ウサギと並んで「エサあげたい小動物」1位みたいなのがいますが、私が近づくと一斉に奥の方へ逃げ込んでしまった。

もしや、人慣れしてない?

 

 

子供たちにヤギのフン掃除をさせるという画期的な企画も行われております。

これで人件費削減だね!動物園はみんなで作り上げるものなのです。

 

 

屋外の展示施設は見終わりました。

あとは園内唯一の展示館である「動物科学館」の中に入ります。

 

 

中にはまず、でかでかとしたケーキが置いてあった。

動物園を立て直すべくやってきたライオンの誕生祭が近々あるそうな。

 

 

しかしこの写真+お供え物だと、誕生祭というよりお彼岸になってしまうがな。

  

 

展示品は骨です。さっきまで触れ合っていた動物が白骨になってしまいましたねぇ。 

真ん中の大きいのはキリンさんです。耳の部分まで骨があるんだな。 

  

 

館内にはなんと熱帯雨林が備わっております。

ここだけすごいムシムシジメジメしている。スコールも降らせるそうです。ドバーっと。 

 

 

この空間の中に鳥を放って、自由に飛ばさせているようだ。

鳥のフンとか落ちてくる可能性もありますが、お客様ご自身で回避なさってください。

 

他の展示室との間は扉で仕切っているわけでも無いので、下手すると脱走される危険もありそうだが、大丈夫なのかしら。

このゾーンではないが、アフリカハゲコウという鳥が2009年に脱走しております。

これにて館内はおしまい。

 

www.asahi.com

  

 

 

 

そういえば遊園地あるんじゃなかったっけと思い出したのだが、調べてみたら2014年に閉鎖したらしいですね。遊具は経年劣化しているし、収益もあまりなくてメンテできないから止めちゃったようです。

 

跡地には、子供たちが動物と触れ合える「ふれあい動物の里」というエリアが出来ています。写真はそのあたりです。閉園時間近いし雨なので誰もいませんが。

でも「動物と触れ合う」って、さっき似たようなゾーンあったよなぁ。ふれあい系はウケるからダブルでやっているのだろうか。

 

 おしまい

  

【交通手段】動物公園駅からすぐ

【入場料】700円

【滞在時間】3時間

【混雑度】★★(周囲に2~3人)

【URL】

www.city.chiba.jp

 

 

国立ハンセン病資料館

 

東村山市にある、ハンセン病に関する資料館です。

秋津駅新秋津駅から徒歩15分程度で来れるし、清瀬駅からバスもあるよ。

 

(公式HPより。展示室は2F)

 

教育施設と言うことで入場料は無料です。

ただ館内は撮影禁止、患者が写り込んでいる画像も展示されているからとのこと。

 

納得の理由なのだが、せっかくの教育施設なのだから、そういう写真が無い撮影可能ゾーンを設けて来館者が学習しやすいようにしてもらいたいところである(クレーマー)

 

(公式HPより)

 

国立の施設と言うことで、やはりパネル展示多めである。

2007年にリニューアルされているので、館内は綺麗。

 

古代におけるハンセン病から、現代にいたるまで詳細に説明されております。

全部挙げると大変な量になるので、気になったところをメモメモ。

 

(公式HPより)

 

ハンセン病自体は古文書等から、平安時代頃には存在していたとされる。

問題となった隔離政策が始められたのは1907年「癩予防に関スル件」にて法制化されてからのこと。

 

ハンセン病患者は外見に症状が出るため、集落から忌み嫌われて追い出され、神社仏閣のあたりで野宿しているのが江戸時代までの常であった。

ただ文明開化の明治時代になって、「公の場にハンセン病患者が寝転んでいると、欧米諸国から馬鹿にされる」と危惧され、隔離政策が取られるようになった。

 

東村山のこの地にも患者の「療養所」が設立され、のちに「多磨全生園」となります。

 

(公式HPより)

 

隔離対象は身寄りのない者が対象だったが、1931「癩予防法」が成立すると、全患者が対象に。

「癩は伝染病」という考えは国際会議でも発表されており、人々は感染を恐れ、癩患者がいると疑われた家庭は通報されて、お巡りさんの家宅訪問を受ける。

そうなると一層、周囲の目は厳しくなって、村八分状態である。

 

酷いところだと、家の中まで入りこまれて消毒液を家の中にガンガンぶち撒かれたり、家の門扉にデカデカと印を書かれたりしたらしい。

患者がいる家庭では、最初のうちは隔離に抵抗したりするが、当然ながら患者自身も家族も耐えきれなくなってきて、療養所に向かうケース。

 

愛媛県庁HPより。お召列車の画像)

 

患者は療養所に送られるが、電車で移動する際は車両が1つまるまる貸し切りにされた。

伝染をふせぐためである。

「お召列車」などと皮肉られて呼ばれていた。

 

(公式HPより)

 

分かりづらい画像だが、多磨全生園では高さ3mにまで達するヒイラギの垣根が植えられていたというものである。

もちろん患者の脱走を防ぐためであるし、療養所の外から中が見えないようにするため。

 

(公式HPより。園で使われていた消防服)

 

園内では医師も看護師も足りておらず、患者自らが他の重症患者の看護をすることになっていた。

また園内で火事が起こっても、消防団は隔離施設なんぞに来てくれやしないから、これも患者たちで行うしかなかった。

なので消防服や機具が展示されております。

 

(公式HPより)

 

映写機もあった、かなり性能の良いやつらしい。

映画は園内でのごくわずかな娯楽だから、せめてそこには金を投じて貰えたのかもしれない。

なにしろ、一度入ったら一生出られないのである。

 

(資料館入り口にある、お遍路の像)

 

患者たちは治るためならどんな薬でも神仏にもすがったそうな。

隔離される前であれば、四国のお遍路。

 

「あの人は(患者)お遍路に出た」と言えば、もとの集落に罹患したことはバレない。

またお遍路であれば、道中の寺院などで何か恵んでもらえる可能性もある。

 

Wikipediaより) 

 

サイの角を粉末にして飲むと効く、なんて話も広まった。

必至にそれを求める患者に対して、悪い連中(特に寺院)が水牛の角を高額で売ったりしていたらしい。

 

愛媛県庁HPより

 

さらに「大風子油(だいふうしゆ)」という、木の種を絞った油が効くとされた。

これを患部に注射するのだが、油を体内に突き込むということでメチャメチャ痛い上に、なかなか体に浸透せず化膿しまくるらしい。

 

1947年に特効薬プロミンが輸入されるまでは、こんなどうしようもない手段に頼るしかなかった。

そしてあらゆる手段を試してダメで絶望した患者たちに対して、行政や周囲の人間は「ゆっくり治療しなよ」と解決策のように療養所のチラシを持ってきて、入所=隔離を薦めるのであった。

 

(公式HPより。施設の再現)

 

館内には、入所者が居住していた住居棟の再現があります。

ぱっと見ると広そうに思えるが、12畳に8人で住んでいたらしい。

そりゃ狭いよ。

 

患者同士であれば結婚も出来たので、園内にも夫婦はいた。

問題なのは夜である。

男性が女性を訪ねるという風習になっていたのだが、女性の居住棟も大部屋であり、夫婦が複数あれば、そのぶん夫が何人も訪ねてきて、狭い部屋に人があふれかえってしまう。

 

夫婦それぞれの間は、ちゃぶ台を倒して衝立代わりにした。

その状況で夜のアレコレをするのだが、する方もしない方も嫌な環境である。

漫喫ってレベルじゃねーぞ

 

重監房資料館ホームページより)

 

園内での厳しい生活に、脱走や犯行を企てる入所者も居たが、捕まると当然に折檻である。

重犯罪者は、草津にある重監房に送られた。

 

コンクリート製の、狭くて明りの無い独房である。

暗闇にずっと置かれると人間発狂するというが、まさにそれ。

そして草津の冬は氷点下20度とか行ったりするけど、暖房設備なぞ備わっていない。

だから計22人の患者が、ここで死亡している。

 

(公式HPより)

 

あとは

・園内で患者同士の結婚は可能だが、子供が生まれると問題なので(ハンセン病患者が増えるから)、断種手術を行うことが前提とされた。断種が間に合わず生まれてしまった子供は、運が良ければ親戚に引き取ってもらえたが、引き取られた直後にその親戚によって殺されたり、引き取り手が見つかる前に死去した子供が大勢いた。

・園内に、ホルマリン漬けの胎児が大量に保管されていた。研究対象にするにしても、保管していた意味や経緯は不明。

・園内では病気が回復せず絶望する者が多く、自殺者が多数。体に穴をあけて毒素を出す、という迷信もあり、もともと栄養失調状態だからそのまま死んでしまったり。

 

もうやめて!

観覧者のライフはゼロよ!

 

wikiから。光田健輔)

 

1947年には特効薬プロミンが輸入されて完治する患者も出てきており、国際的にも「ハンセン病患者の社会復帰をどうするか」が議論されていた。

しかし日本では1953年「らい予防法」が改正制定、強制隔離政策が続けられることとなる。

 

戦前から隔離政策を主導してきた医師 光田らの主張に加え、厚生省や政府側も隔離継続を前提とした「救らい政策」を考案。

この法改正には多磨全生園の患者らは怒り、外出禁止規則を破って霞が関まで飛び込んで反対運動を展開したが、聞き入れられることは無かった。

 

そんなんで時代遅れの隔離・断種は1996年に らい予防法と優生保護法が廃止されるまで続き、日本史上最大の人権侵害となったのであった。

 

以上であらまし、おしまい。

 

 

wikiより)

 

あと館内にパチンコが置いてあって「?」ってなったんだが、指が動かなくなった患者のリハビリとして、パチンコを利用しているらしい。

それ別の病気になったりしませんかね。

 

 

あと、この資料館、入館するとパンフレットやチラシたくさん貰えるのよね。

こんなにあるよ、8種類も!

大盤振る舞いすぎて持ち帰るのが大変だから、もうちょっと絞ってもらっても良いのよ?

 

以上。

 

※ 参考文献

 

 

www.mhlw.go.jp

 

 

 

【交通手段】新秋津駅秋津駅から徒歩か、清瀬駅からバス

【滞在時間】2時間

【混雑度】★★★(ちらほら)

【入館料】無料

【URL】

www.hansen-dis.jp