C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

帆船日本丸

 

桜木町駅からみなとみらい方面に歩いてすぐのところに、船が置いてある。

 

 

この船が、日本丸

1930年~1984年まで、船員育成のための練習船として使われていた。

 

 

 

船の前のチケット売り場。

船の対面に、みなと博物館があるが、そことの共通券もあり。

 

 

 

いざ乗船。

 

 

この場所は、明治時代に建築された横浜船渠1号ドックの遺構であり、これ自体が文化財になっている。

そして日本丸自体も2017年に文化財登録を受けたということで、横浜誇らしい感が漂っている。

 

 

 

まずは前部へ階段を登り、右手の部屋へ。

 

 

 

ブリッジに到達。

 

 

運転できます(迫真)

 

 

後ろには本が幾つか置いてある。

 

 

古書かと思いきや、平成20年という割と新しめだった。

 

まぁ日本丸は現在2代目が練習船として活動しているので、そっちの方で使っていたのかもしれない。

 

 

 

昭和時代、全国に11校の船員育成学校があったのだが、所有する船が貧弱であり、そんな船で遠洋航海に出るのだから危険極まりなかった。

1927年に商船学校の船が航海中に暴風雨にあい、乗組員53名全員死亡という惨事が発生。

 

 

 

そんな悲劇を起こしたので、事故翌年の1928年、日本政府は大量の予算をぶっこんで大型の練習船を製造することにした。

 

船の設計は、日本国内ではあまり経験が無かったため、イギリスの会社に依頼した。

しかしこの設計に欠陥があり、修正する羽目になったとか。

やっぱりメイドインジャパンがナンバーワン!

 

製造自体は川崎重工の前身である、川崎造船所が行い、1930年に進水した。

 

ブリッジの反対側へでて、船の右舷側へ。

 

 

階段を下りて、前方に向かう。

戦艦では無いので、大砲は載せていません悪しからず。

 

 

船首甲板に来ました。

 

 

進水後は全国の船学校で重宝された日本丸

戦時中は物資輸送に使われ、多くの船が撃沈される中、幸運にも生き残る。

 

戦後は、海外の戦地にいる日本人の引き上げ・遺骨の収集。

朝鮮戦争がはじまると、朝鮮半島から出国者輸送も担うなど、フル稼働の活躍。

 

 

 

後方を見た図。

ワイヤーがありすぎて、「祝 文化財登録」の横断幕を覆ってしまっている。

 

戦争関係のごたごたが終わった後、日本丸は再び練習船として使用され始める。

1984年に引退するまでの54年間で、11,500名以上の船員を育てた。

 

そういうわけで引退後の引き取り手として多くの都市が立候補したが、横浜市滝川クリステル並のアプローチをしたので、ここに飾ることになりましたとさ。

 

 

 

なんか置いてある。

 

 

ヤシの実だった。

 

 

こんな感じで、床掃除をするのに使うらしい。

 

なおこの船では団体向け体験教室もやっていて、そこで床磨きを体験できます。

腰を悪くしそうなので私は遠慮します(老並感)。

 

 

 

船首甲板の後ろは機材だらけ。

 

 

 

手押しポンプ。

飲料水タンクに繋がっている。

航海中、水は非常に貴重なので、普段は操作できないようにカギをかけていた。

 

 

 

なんだこれは。

 

 

船室用の換気口だった。

 

 

 

これは巻き上げ機。

帆を上げたり、着岸時のロープ巻きで使用する。

 

 

穴が開いているところに、この木の棒を差し込む。

 

 

するとこんな感じになる。

 

 

 

洗濯桶。水の節約のため、洗濯は週に一度だけ。

さらに節約のため、桶1つ分の水を5名で使う。

連係プレイが求められる。

 

 

 

そんな感じで、機材いろいろコーナーでした。

 

 

下の船室におりる。

 

 

急な階段である。

 

 

第二甲板。一般の船員が使うゾーン。

地下2階にあたる。

 

 

 

展示。

船乗りは、様々なロープの結び方を覚えなきゃいけない、ということ。

そしてそれぞれの結び方には名前が付いている。

 

 

【問題】これは何結びでしょう?

 

 

船員の寝室。

ほとんどの部屋はドアが閉められているけど、ガラス越しに見れる部屋もあります。

 

 

この船の体験教室メニューの中に、お泊り教室があるらしいので、閉鎖されている部屋はお泊り用にしているのかもしれない。

 

ただベッドはかなり狭いので、翌日筋肉痛が予想される。

まぁ船のスペースは限られているからね、しょうがないね。

 

 

 

一部屋だけ、立ち入れるところがあります。

なお三笠では時代的にハンモックが寝床だったが、時代が進んだ日本丸はベッド(小)になっている。

 

足を伸ばせるハンモックと、足を伸ばせないベッドではどちらが良いんだろうか(哲学)

 

 

 

当時の写真。散髪するところ。

うーんこの。

 

 

 

一般船員居住ゾーンを抜けると、また船乗り結びの展示。

 

 

なんか飾ってある。

 

 

船乗り結びだけを駆使して作られたものだった。

 

 

次のゾーンへ。

いきなりカラフルな看板である。

 

 

廊下を進む。

こちらは右舷側です。

 

 

 

右手にあるのは、機関室。

 

 

すごいっすね(ボキャ貧)。

 

 

 

 

ここはジャイロルーム。

写真右側にあるのがコンパス。

電気信号でブリッジや船長室にあるコンパスに情報を送るという、ハイテクっぷり。

 

 

 

機関室の横には、機関長室。

個室だけど、やっぱりベッドは狭そうである。

 

 

奥に行くと、また一般人用の船室。

 

 

 

機関長室にもあったが、毛布を使った折り紙じみたものが置かれている。

 

これは「飾り毛布」といい、日本船の客室で提供されるサービスなんだとか。

 

 

 

しかし薔薇とかなら良いが、船室開けてコブラがいたら、もはや別のサービスな気がする。

 

 

 

いたるところに、飾り毛布は置かれています。

 

 

病室のベッドも、彼らが占拠している。

入院させてくれよなー、頼むよー。

 

ただこのベッド自体も、ものすごい狭さではある。

 

 

病室の隣にあるのは、医務室。

 

 

手術台もまた、恐ろしく小さい。

オペ中に患者が転がり落ちないか心配である。

 

 

医務室の看板は味がある感じ。

 

 

左舷側の廊下。

 

 

展示室。

 

 

やけに金ピカな道具を置いているが、なぜ金ピカなのかまでは不明。

 

 

展示してあった写真。

捕まった宇宙人みたいになっている。

 

 

 

まーた船乗り結び。

やっぱ好きなんすねぇ。

 

 

 

これで第二甲板おわり。

上甲板(地下1F部分)にのぼる。

てかまだあるのか(疲労

 

 

 

最初は調理室。

 

 

当時のメニュー。

食器が時代を感じさせる。

 

 

献立。あんがい良いものを食べている感じ。

 

夜食や間食があるが、機関士などは宿直しないといけないからだろう。

 

 

ぐらぐら揺れる船で調理をするのだから、大変である。

船員は100名以上いて、その食事を10人程度で作っていたらしい。

 

 

 

広いところへ来た。

 

 

見るからに、講堂といった部屋。

 

 

本棚がある。

さすが講堂である。

 

 

ただ「結婚入門」とか「タバコはやめられる」とかあるんですけど(困惑)

 

まぁ海の上で婚活をするのは困難なので、陸に戻った時に速やかに異性を探せるよう予習をしていたのかもしれない。

 

 

講堂を出て右舷側にいくと、シャレオツな廊下に出る。

 

 

 

このゾーンには船長など高官の部屋があるためである。

 

ここは船長公室で、来賓を迎えたりするときに使う。

 

 

さすがに他の部屋とは別格である。

 

 

隣室は、船長の私室。

100名以上の船員の命を預かるので、それだけに良い待遇が必要である。

 

 

 

というわけで、飾り毛布のサービスがあります。

 

 

船長用の風呂。

ただ水が無いので、入浴は週2回で、海水を沸かして使う。

 

塩分があると温まりやすいから、ちょうど良いんじゃない?(他人事)

 

 

一等航海士の部屋。

船長の次に偉い人。

ただ越えられない壁があるのか、船長室よりはだいぶグレードダウンされている。

 

 

 

通信室長の部屋だが、電気が付いていないので暗い。

電気が無くても通信は出来るのだろうか。

 

 

廊下の突き当りは、士官用サロン。

偉い人たちの食堂兼会議室になっている。

 

 

天井にはステンドグラス。

下級船員とは違うのだよ、下級船員とは。

 

 

左舷側。

三等航海士の部屋はスヌーピーっぽい人に占領されていた。

 

 

 

事務員の部屋。

 

 

 

そして船医の部屋。

これ奥のベッドとソファーの、どちらで寝るんだろうか。

というか、ソファーどければ、もっと大きなベッド入ると思うんだが。

 

 

 

船室を終えて、無線室。

 

 

ファックスが置かれている。

別に不思議ではないと思うが、三笠の後で来ると時代の進みっぷりを実感する。

 

 

 

ようやくラスト、船尾の甲板に来た。

 

 

 

ぱて。

 

 

巨大な舵。

帆を上げて走っているときは、この舵を使うらしい。

 

巨大なので、2名~4名がかりで動かすとのこと。

 

 

上に登れます。

 

 

 

羅針盤が置かれている場所。

ワイヤーだらけである。

 

 

ワイヤーにはすべて名称がついている。

帆を上げるために使うんだろうけど、これ全部覚えるのムリゲーである。

まだ船乗り結びの方が良いや。

 

 

 

普段はこの船、帆を畳んでいるんだけれど、たまに広げられている。

大量のワイヤー君たちが効力を発するときである。

 

 これにておしまい。

入場料の割には、相当なボリュームであった。

 

以上。

 

 

【交通手段】桜木町駅から徒歩5分

【入場料】400円(みなと博物館と共通なら600円)

【滞在時間】90分

【混雑度】★★★★★(混み過ぎて疲れる)

【URL】

www.nippon-maru.or.jp

 

 

東海道かわさき宿交流館

 

東海道かわさき宿交流館は、東海道ネタを主に扱う川崎の郷土資料館である。

 

 

 

4F建てなので、けっこう高い。

そして2013年建築という新しさ。

 

 

 

しかし東海道沿いにある町は、漏れなく東海道の誇らしさを語っている感じである。

 

 

 

 

1Fは休憩所やパンフレット置き場。

川崎を街歩きしてきた人たちのため、だって。

 

 

畳の上でも休める模様。

奥にある壁紙は、川崎にあった「万年屋」という茶屋のリバイバルとのこと。

 

 

万年屋では「奈良茶飯」なる、おこわが有名だった。

東海道中膝栗毛でヤジさんだか角さんだかが食べたので、大ブームになったらしい(当時)。

 

現在では川崎屋東照という店で食べられる模様。

なお一般社団法人おにぎり協会も、奈良茶飯おにぎりを推奨している。

 

 

交流館のキャラクター「六さん」。

名前は川崎をとおる六郷川から。

 

これは人気でないな(確信)。

 

 

2Fの展示室へ。

階段になにか貼ってある。

 

 

東海道五十三次の絵だった。

おそらく全ての絵が貼ってあったので、階段を登るだけで東海道を踏破した気分になれます(迫真)

 

東海道五十三次には様々なパターンがあるということは藤沢の浮世絵館で思い知らされているわけだが、ここに展示してあるのは一番メジャーな「保永堂版」である。

 

 

 

2Fの展示室。

 

 

4時までは解説ボランティアさんが居るみたいだが、この日は4時を過ぎていたので、がらんどう。

 

 

 

資料室はいって一番最初にあるのが、この映像資料。

 

 

1本3分程度の話が4本あるので、全部見るとまぁまぁなボリューム。

 

 

 

解説担当はウナギ。

川崎には結構ウナギの店あるが、多摩川産を使っているかは不明である。

 

 

こちらもタッチスクリーンで、川崎宿の様子が見れる。

新しい施設だけあって、ハイテク。

 

 

六さんの案内タブレットがある。

なにを案内してくれるんだろうか。

 

 

 

このタブレットを室内の他の展示にむけると、「その展示が何を展示しているのか」がタブレットに表示される。

 

「どのメニュー表が何のメニューを表示しているのかを示すメニュー」みたいな屋上屋感である。

 

 

 

川崎宿と、現在の川崎の比較図。

 

 

そして五十三次ふたたび。

階段で目を凝らしてみていた人は、ここでもっと容易く見れることに驚愕するだろう。

 

 

五十三次売ってます。

 

 

旅の道具ゾーン。

 

 

 

江戸時代の人は、よくこんな枕で寝られたなぁ。

首ばっきばき不可避。

 

 

印籠は、江戸時代では薬を入れる道具だった。

 

水戸黄門も印籠を見せびらかして事が収まった後に、中から薬出して飲んでるんだろうか。

寄る年波には勝てないものである。

 

 

安定の、川崎宿模型。

 

 

コスプレゾーン。

 

 

 

ズラもあるけど、男のやつはどうにかならなかったのだろうか。

 

 

撮影会場はこちら。

 

 

撮影会が終わったら、3Fの展示室へ。

 

 

入って左側が常設展。

 

 

文字がビッシリ。

下の階と打って変わって、パネル置いときますね的な展示。

行政っぽいなぁ。

 

 

 

と思ったら、また大きなスクリーンがある。

 

 

映っているのは、川崎市の航空写真。

市域全体のほか、区ごとに拡大した写真も見られる。

写真上には施設の位置や案内が載っている。

 

 

そして昔の航空写真との比較もできます。

 

 

写真が無いと、全力で「写真無い」訴訟を起こされる。

まぁ埋め立て地のあたりはね。

 

 

昭和時代の写真は無いが、明治時代の地図はあった。

ただ結局海なので、何もないことに変わりはない。

 

 

 

ブラックアウトしてしまう土地もあった。

こわいこわい(適当)

 

 

 

川崎市にゆかりのある、えらい人たち。

松尾芭蕉みたいにその辺歩き回っている人は、どこの町でも展示されてしまう。

 

 

すき焼きの人も、川崎出身である。

 

 

あとはまたウルトラ細かいパネル展示(疲労感)

 

 

 

常設展のお隣は、企画展。

 

 

 

こっちはさらにパネルだらけだった。

 

このときの展示は、周辺の街歩きスポット紹介だったけれど、「芭蕉の句碑」とか「遺構」など、街歩き上級者向けであった。

 

 

4Fは会議室なので、なにもなし。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】川崎駅から徒歩10分

【入館料】無料

【滞在時間】45分

【混雑度】★★(他に2~3人)

【URL】

kawasakishuku.jp

 

 

瀋秀園

 

瀋秀園(しんしゅうえん)は、川崎にある中華式庭園である。

 

 

 

川崎市と友好都市である、中国の瀋陽市から記念に寄贈されたという。

「庭園を寄贈」という意味が良く分からないが、材料を中国から持ってきて、中国の庭園技術を用いて作ったような感じがする。

 

 

 

まぁなんか中国っぽい(雑)。

 

 

 

入口の門をくぐったところ。

 

 

 

さらに門。

 

 

庭園が見渡せるようだが、工事中のため門の中にまで入れず。

 

 

仕方ないので右側の通路へ。

 

 

池を挟んで進行方向に東屋。

 

 

 

東屋部分に到達。

 

 

池方面をみると、右側の高い位置にまた東屋。

 

 

入口方向を見た図。

 

 

瀋陽市は遼寧省の中にあり、遼寧省北朝鮮の左上に位置している。

かつて満州だったところで、満州事変~敗戦までは日本が支配していた地域。

良くも悪くも日本と縁があるのか、浜松市佐世保市・札幌市も瀋陽市と友好都市である。

 

 

 

高い位置にある東屋に上ってみたところ。

しかし無料開放されている庭園にしては完成度が高く、よく整備されている。

 

 

 

池の中央にある島に渡ったところ。

 

瀋秀園で検索すると、サジェストに「コスプレ」と出てくる。

中華的なコスプレイヤーにとっては重宝できる場所なのだろうか。

 

 

 

 

瀋陽市は中国東北部の交通の要衝であり、また17世紀に清朝が勃興した地域でもあるので、古くからの重要都市。

だからお金持ちが住み着いて、庭園がいろいろ造られたのかもしれない(直観)

 

 

 

庭園内には、子連れでお散歩しているファミリーや、ジョギング途中で寄った感じのスポーツウェアの人たち。

この庭園を通りながら走れるのはいいね、16時で閉まるから平日サラリーマンには無理だけど(絶望)

 

あと、この日はコスプレイヤーは見なかった(遺憾)

 

 

 

瀋秀園は大師公園の中に位置しているんだけど、大師公園自体ではお子様たちがわんさか遊んでいるので、ボールをぶつけられないように注意されたい。

庭園内は、外の喧騒が嘘のように静かである。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】東門前駅から徒歩10分

【入場料】無料

【滞在時間】20分

【混雑度】★★(他に2~3人)

【URL】川崎市:大師公園「瀋秀園」

 

 

記念艦三笠

 

横須賀の三笠公園には、『坂の上の雲』でおなじみ戦艦三笠が保管されている。

 

 

 

入場券は隣のお土産ショップで購入。

 

 

 

東郷平八郎銅像

 

 

船の所有権自体は防衛省だが予算が無いため、船の「中の人」は殆どボランティアらしい。

 

 

 

入場します。

 

 

 

甲板に上がり、チケットをもぎられて内部へ。

 

 

最初の部屋は無線室。

 

 

坊主(見た目)が働いている。

 

 

部屋の手前に、モールス信号の機械が置いてある。

おさわり自由。

 

 

 

陰ってしまっているが、甲板中央部分。

すごい人だかりである。

ボランティアの人が解説している。

 

 

 

記念撮影をしろと言わんばかりの背景。

 

 

甲板横の通路。

 

 

 

端には、すぐ撃てるように大砲が設置されている。

 

 

 

目標は猿島である。

 

 

 

ビデオ室。

ここで三笠の歴史についてお勉強。

 

 

ビデオは20分くらいあり、けっこうなボリュームである。

 

日露戦争の終了直後に事故で一度沈没してしまった三笠だが、1908年に戦列復帰。

1次大戦やシベリア出兵でも活動するも、1922年ワシントン海軍軍縮条約を受けて廃艦対象となる。

 

 

 

予算不足のため、カンパ会員募集中!

 

廃艦は決定したわけだが、ロシアを破った栄光の連合艦隊として保存を求める声は強く、記念艦として保存することとなった。

 

東京の芝浦に保存する予定だったが、横須賀に係留中の1923年に関東大震災が起き、底が破れて浸水してしまったため、もう横須賀に置くことにしたとのこと。

 

 

二次大戦が終わって占領下になると、まずソ連が三笠の解体を求めてきた。

まぁ彼らにとっては憎き敵艦である。

ただソ連が嫌いなアメリカさんの声援により、解体は免れる。

 

しかしそのアメリカ人たちも、三笠を改造して水族館やダンスホールを建てるなど、ろくなことをやらなかった。

東郷平八郎を尊敬する米海軍ニミッツ元帥はそれを知るとブチ切れて、三笠の保護を始める。

 

 

 

ニミッツ元帥はこちら。

こんな人にキレられたら誰だってビビるわな(納得)。

 

というわけで、国内外から支援を受けて三笠は再び記念艦として保管される。

しかし戦後の混乱で、艦内から金目になるものがパクられてしまったし、荒廃も酷かったので、艦材は入れ替えて復元された模様。

 

 

 

甲板の他の部屋。船員の寝室で、ハンモックがある。

寝室だけど、真ん中には大砲。

 

船は波によってぐらぐら揺れるから、普通に寝床に寝ると、揺れにそってゴロゴロ転がって、みんな寝相が悪くなってしまう。

ハンモックは船の動きに合わせて揺れるので、その中に寝ていれば転がらないで済むというもの。

 

もっとも二次大戦期には、船がそんなに揺れないよう技術が進歩したので、もうハンモックでなくてベッドになった。

そりゃベッドの方が良いよね(現代人並感)

 

 

こちらの部屋では、大砲を撃とうとしている。

 

 

 

Z旗。ゼェェット!

 

本来は国際信号旗のうちの一つに過ぎないのだが、日本海海戦の際に三笠ではこれが掲げられていた。

トラファルガー海戦でネルソン提督が掲げていたから、というのが理由。

 

なんでネルソン提督がZ旗掲げたのかまではよく分らんが、Zはアルファベットの最後の文字のため、「後が無い=よろしいならば決戦だ」という意味があるらしい。

 

 

 

Z旗って、ZよりXに見えてならないんだけど、国際信号旗のX旗はこれ。

えぇ・・(困惑)

 

とにかくZ旗=決戦、という意味が日本海軍では定着し、2次大戦中も掲げられていたとのこと。

 

 

 

甲板からさらに上へ。

 

 

 

マストは高すぎるので、登れません。

 

 

 

ブリッジ部分。

 

 

 

この部屋がブリッジ。

操舵輪や羅針盤が置いてある。

 

 

 

後ろの部屋は海図室。

信号旗や海図、各種道具を置いている。

 

 

棚には、旗がいろいろ。

 

 

 

船の頭は、皇居の方を向いている(敬礼)。

 

 

 

 

ブリッジ部屋の屋上部分。

 

 

 

羅針盤

 

 

この管に向かって話すことで、下の部屋に伝令するのだろうか。

 

 

 

ブリッジと甲板の間の、中2階みたいな場所に来た。

目の前に見えるのは、トイレか?(難視)

 

 

 

トイレでも喫煙所でもなくて、前部司令室だった。

上のブリッジが敵の砲弾で吹き飛ばされた時に備えて、防護を施してあるこの部屋に臨時の操舵設備を置いている。

 

 

 

船尾の方へ。

 

 

こっちにも、前部司令室がある。

 

 

中には消火器しかなかった。

 

 

海図室も船尾にある。

 

 

 

こっちも何もなかった。

展示品は前方の海図室に置いたんだから、それで満足しろということであろう。

 

 

船尾方面は、マンションだらけ。

あとどこかの国では見るだけで怒り出す旗が掲げられているが、あれは海上自衛隊の旗になっているからね、仕方ないね。

 

 

 

日本海海戦で打ち抜かれた三笠の艦材を使って、灯篭を作ったらしい。

 

 

 

なんかもうここまででお腹いっぱいなのだが、まだ下が有ります(震え)

 

 

 

ここは「中甲板」という。

上の階は「上甲板」と言うらしい。

 

あとこの下の階に「下甲板」があるのだが、記念艦として保存する際に下甲板には土砂やコンクリートをガンガン入れたので、もう入れません。

重しとしての意味合いだと思うが、あと三笠は軍縮条約による廃艦対象であったため、「もう軍艦として使いませんよ」的なアピールだったのかもしれない。

 

 

 

左舷側の廊下には模型がぞろぞろ。

 

 

どれも一緒に見えるが、ちゃんとそれぞれ名前があります。

 

 

だが途中から面倒になったのか、番号で呼ばれているモノたちも。

 

 

 

三笠もあります。

模型サークルが作成したらしい。

はえーすっご。

 

 

 

なんも置かれていないところは、まだ製作中なのだろうか。

 

 

 

奥の講堂は、上映イベント時じゃないと入れない模様。

 

 

 

横の部屋には、日露戦争の詳細がいろいろ書いてあるけど、さっきビデオで見た内容とあまり変わらないので流し流し。

 

 

 

中央展示室。

 

 

三笠の模型

さっきのより大きいじゃん(掌返し)

 

 

三笠の艦内を歩けますというゲーム。

 

 

勲章ぞろぞろ。

 

 

映像解説。

まぁさっきビデオで見たから(疲労感)

 

 

 

クソデカ菊紋くん。

三笠の艦首に取り付けられていたとのこと。

 

 

 

なんとVR日本海海戦を見れたらしいが、残念ながら時間切れ。

 

 

 

 

東郷平八郎のもちもの。

 

 

 

例の「皇国の興廃この一戦にあり」を、東郷平八郎が書いたもの。

自筆。

 

 

 

ユニホーム。

中央展示室おしまい。右舷側へ。

 

 

 

なんと今度は日本海海戦を見るだけじゃなく、自分で戦えます。

 

 

操舵機。

 

 

数年前に三笠に来た時は、さっきのVRもこんなゲームも無かったので、ずいぶんなハイテク化である。

横須賀市は毎年人口が千人単位で減少しているので、観光政策に本気を出してきた感じ。

実際、この日はどこへ行っても観光客が沢山いた。

 

 

ゲームで優秀な成績を収めた人は、自衛隊に入ろう

 

 

各国から寄せられた記念品たち。

いちおう中国や韓国もありました(察し)。

 

 

 

三笠が使われていた当時のお写真。

 

 

このときは小学生による船コンクールみたいなのが展示されていた。

ずいぶんメルヘンな戦艦である。

 

 

 

もはやこちらは戦艦では無いが、右奥にキン肉マンみたいな人が居るから大丈夫だろう。

 

 

 

中甲板の船尾には長官室などの貴賓室があるのだが、ろくな写真が撮れなかったので

この3枚は公式HPから借りました、めんごめんご。

 

これは長官公室で、来客用や幹部たちの会議用部屋。

 

 

 

これは士官達が会議や食堂として使っていた部屋。

 

 

 

そしてこれが長官の部屋。

東郷平八郎が使っていた。

 

艦内おしまい。

 

 

艦内はそうとう広いので、軽い気持ちで入るとあっという間に閉館時間になって叩き出されることになるので、気を付けられたい(経験談

 

以上。

 

 

【交通手段】横須賀中央駅から徒歩10分

【入場料】600円

【滞在時間】2時間

【混雑度】★★★★(すぐ横に人)

【URL】世界三大記念艦「三笠」公式ホームページ | 神奈川県横須賀市

 

 

平塚市博物館

 

平塚市博物館は、平塚市の郷土博物館である。

 

 

 

入口付近にいろいろ置かれている。

 

 

漬物屋で使っていた桶。

 

 

 

造り酒屋で米を蒸すのに使われた窯。

なお湘南付近には酒造は1つしか残存していないので、米どころの実力については(察し)

 

 

 

入口。

まさに役所建築。

 

 

 

館内は撮影可能のようです。

茅ヶ崎市は見習って、どうぞ。

 

右側にあるのはコインロッカーではなくて、引出しの中に資料があります的なやつ。

 

 

 

左側に、茶室。

 

織田有楽斎(信長の弟)が京都に建てた茶室を、横浜の三渓園に移築しているが、さらにその移築したやつを模倣して作ったもの。

平塚要素はあるんでしょうか(震え)

 

 

 

江戸時代の古民家。

 

 

市内の名主の家がモデル。

 

 

 

土間には、郷土博物館安定の農具。

 

 

古民家を抜けると、ジオラマ

 

 

家がずらずら。

東海道の宿場町だったから。

 

 

 

こちらは古墳のジオラマ

相模川金目川など周辺に河川があるし、古代は海も迫っていたので、人の集まる条件はあったと思われる。

すごいですねぇ(雑)

 

 

 

縄文時代の暮らしの再現。

 

 

 

江戸→古墳→縄文と、時代が飛び飛びだけど、気にしてはいけない。

 

 

 

天井に干されている魚はリアル。

 

 

 

次のゾーンへ。

 

 

石。

 

 

 

石!石!

 

 

 

いろんな種類の石。

上述の通り平塚には大きな川が幾つかあり、河川敷に石が豊富なので、石材としてじゃんじゃん活用している模様。

 

 

 

持てます。

重さや触感の違い。

 

 

平塚の森や川に関するゾーン。

 

 

 

こっちは森。

 

 

木材が置いてある。

 

 

よくみると、虫が張り付いていた。

ヒエー。

 

 

こっちは川。

相模川は、山梨県から神奈川北部・県央部を通って湘南に流れてくる。

金目川は、大山から来ているから、大山詣に使われたのかもしれない。

 

 

 

というわけで、船は重要な流通手段。

 

 

 

2人で漕いでいるかと思いきや、前の人はパイプ吸ってた。

 

 

釣りも盛んで、アユが人気。

 

1Fおしまい。

 

 

 

2Fへの階段の踊り場にあったもの。

人が縛られているようですが、大丈夫なんですかね。

 

 

 

同じく踊り場に展示されていた絵画。

戦時中の空襲がテーマ。

 

2Fへ上った時には怖い気分になっている、なかなか無い階段である。

 

 

 

2F。

 

 

右側から行くと、まずは漁。

さっきは川だったが、今度は海。

 

 

漁の道具たち。

 

 

 

イキョといって、エサ用イワシをいれて海中に置いておくもの。

イワシを活きのいい状態にしておいて、釣りたい魚さんに美味しく食べてもらうためである。

 

 

 

突然の自転車。

 

 

 

ミショー式といって、前輪にペダルが付けられている。

これを漕ぐには、前傾姿勢をとるか、よほど足を伸ばさないとダメそう。

足攣り不可避(軟弱並感)

 

 

 

亀。

骨の方が迫力がある感じ。

 

 

海岸に流されてきたもの。

木のみとか流木は、川の上流から流れてきた系。

 

 

 

ゴミもちらほら。

 

 

プラスチック系は流さないようにしましょうの展示。

食パンとか伊勢エビとかありますが(すっとぼけ)。

 

 

 

箱根の仙石原にあった大木の年輪。

平塚要素は(省略)。

 

 

 

まだまだ続くよ!(疲労感)

 

 

丹沢周辺は、もともと別の島だったのが大昔に日本列島と衝突して合体した、という流れの説明。

 

 

島だったので、地層に貝とかビッシリ。

 

 

まーた石のコーナーか、壊れるなぁ。

 

 

まんじゅう石。

うまそう(適当)。

 

 

 

 

相模国国府は平塚にも一時ありました、な説明。

あれ、海老名市温故館では、国府は海老名にあったって展示されてたけど。

 

 

 

どうも相模国 国府の正確な位置は分かっていないらしい。

海老名にあった説のほか、平塚・小田原・大磯説などもある模様。

これもうわかんねえな(思考放棄)。

 

 

 

腰の帯に付ける飾り。

役所では、階級ごとに付けてよい飾りの種類が決まっていたらしい。

 

 

 

この展示の横にベルトが置かれていたが、こんな感じで飾りを付けていたのだろうか。

 

 

イラストもあります。

 

 

こんなイラストもあったが、こっちは詳細不明。

 

 

 

道祖神に藁の屋根をかぶせて、小屋状態にしたもの。

普段はもちろん被されてないが、平塚のお祓い行事で1月14日にやるのだと。

 

 

 

小屋ではお祓いの他、お菓子やお神酒を売ったりするので、もはや屋台状態。

そして子供たちはここを拠点にして、町中へ賽銭や飾りを貰いに回る。

 

その子供にお賽銭上げないと、道祖神にいたずらされる恐れがあるので、トリックオアトリートな雰囲気である。

 

 

 

いきなり地震のデータベース。

湘南一帯には活断層がけっこうあり、73年間に1度のペースでマグニチュード7級の地震に見舞われている。

 

 

 

その地震が起こると、被害はこんな感じ。

県西部は片っ端から震度6以上。

 

前回の大地震が1923年の関東大震災なので、もう73年過ぎている。

やばいやばい。

 

 

 

2Fの最後は戦争ゾーン。

 

 

横浜ゴムの洋館は海軍火薬廠関係の建物だったが、それ以外にも海軍系の施設が多数あり、平塚は軍都であった。

よって終戦間際の1945年7月に米軍の大空襲を受けて、市域の6割が壊滅状態になったという。

 

階段の踊り場にあった絵画は、その空襲についてである。

 

 

 

2F終わったので、3Fへ。

宇宙っぽくなった。

 

 

このフロアにはプラネタリウムがあり、200円で観覧可能。

開始時刻に間に合わないと、入場できないけど。

 

 

 

プラネタリウム入口の横に説明書きがあるけど、細かすぎて見る体力がない。

 

平塚って宇宙関係の施設ないのに、なんで宇宙の展示やっているのかと思ったら、戦時中にロケットの開発研究してたらしい。

海軍火薬廠に勤めていた村田勉という人物が、ロケット用の火薬を開発しており、戦後のロケット開発にも貢献をしたのだと。

 

 

 

隕石の話。

 

 

1989年にナミビアへ落下してきたギベオン隕鉄という隕石。

 

 

 

石の載っているプレートの両側に把手があり、これを持ち上げて石の重さを思い知れ的なもの。

「重いよ」と煽るだけあって、クッソ重かった。

 

 

 

あとはPC置いておくので、各自で調べて下さいコーナー。

 

おわり!閉廷!

 

 

 

というわけでなかなか盛沢山な博物館だったが、入り口広場の噴水が完全に停止しているのを見て、その財政状況の辛さを察するのであった。

 

以上。

 

 

【交通手段】平塚駅から徒歩15分

【入館料】無料

【滞在時間】60分

【混雑度】★★(他に2~3人)

【URL】

www.hirahaku.jp