馬の博物館
馬の博物館は、根岸森林公園内にある、馬全般についての博物館である。
この公園は、戦前まで横浜競馬場として、競馬が開催されていたところである。
色んな理由があって今は公園になっているが、それは後述。
馬をそこかしこに潜ませている。
入館料は100円とお安い。
競馬で儲かっているから余裕があるのだろうか(偏見)
入館そうそう大きな馬がお出迎え。
建物は外から見ると小さい感じなのだが、地下に展示室が3つあるので案外広い。
1Fは受付の他、この第1展示室。
ここでは横浜競馬場および日本競馬の歴史が話されている。
日本競馬の歴史は、横浜開港からである。
外国人たちが居留地で競馬をはじめ、1866年には江戸幕府主導でこの根岸に競馬場の建設が決定。
これは1870年の写真で、中央に競馬場が写っている。
でも周囲ほとんど砂っぽいんですが、それは大丈夫なんですかね。
初期の競馬運営体は外国人ばかりだったが、それら組織をまとめて1880年発足した日本レースクラブには日本の政府要人や宮家なども加入。
社交・外交の場となり、不平等条約改正に貢献したとも言われる。
伊藤博文の馬主服。
ここ根岸を発祥として、日本各地に競馬が広まった。
しかし賭博行為は違法であったため、日本人による競馬では馬券販売が認められず、収益を上げられないそれら競馬場はアッサリ廃れた模様。
一方で治外法権を得ていた外国人たちは、日本国内法に拘束されず、馬券販売を行っていた。
おかげで横浜競馬は発展したわけだが、なんか皮肉な感じもする。
競馬場の模型。
そんなんで賭博禁止な明治政府だったが、一転して1905年から馬券発売を容認する。
理由は、馬匹の育成のため。
日本在来の馬は、西欧のと比べると大層貧弱だったらしく、日清日露戦争でそのことが明白になる。
競馬業界で優秀な馬を育てて富国強兵ww的なノリである。
その競馬業界を活性化させるため、馬券販売を「黙認」したという大人の事情。
これを受けて各地で競馬が盛り上がり始めるが、ずさんな運営・賭博中毒者の続出・アウトレイジな方々のご登場などが続出し、1908年には馬券禁止になる。
はえーな、オイ。
写真の嘆願書は、横浜競馬の日本レースクラブさんサイドが「うちは昔から馬券販売をやっていて、他のポンコツ競馬場とは違うから、販売認めてクレメンス」と書いてある(意訳)。
とはいえ政府としては馬をどげんかしないといけない。
実際、馬券禁止したことで観客は激減していた。
よって馬券販売は禁止するが、その代わりに補助金を出すことで、競馬場の運営を支えようとする。
ただ競馬場は競馬場で、「景品」を用意した馬券を販売していた。
どこかのパチンコみたいである(遠い目)
天皇賞のトロフィーとやら。
まぁしかし今度は補助金が増大して財政を圧迫したり、陸軍が強く主張したので、1923年に競馬法が成立し、馬券販売が再び合法となる。
ギャンブル厨歓喜。
1936年には軍部統制が強まる中、競馬場も全国の組織がまとめられて「日本競馬会」が誕生。
居留外国人のみの競馬だった時代から、複数の組織を統廃合して続いてきた日本レースクラブ(1906年からは「日本レース倶楽部」)の歴史はここで終わることになる。
2次大戦が激化していくと、横浜競馬場の運営も1942年に休止。
翌年には「港が見下ろせてしまう」という理由で海軍に接収される。
終戦後は米軍に収用されてしまい、返還は1969年である。
戦後当時は競馬場として復活が望まれていたが、さすがに20年以上たつと競馬もより大規模化してきて、横浜競馬場を近代的に作り直すのは無理っぽくなってきた。
というわけで、森林公園として整備したんだと。
以上、歴史おわり。
なお日本競馬会は、終戦間もない8月29日に日本政府に対して競馬場の払い下げを求めている。
早すぎィ。
ここまでで既に文量が多くなっているが、まだ地下があります(白目)
第2展示室はかなり広い。
なお個々の展示品は著作権が発生する可能性があるので、撮影は限定されている。
大っぴらに撮影できるのは、民家を移築したゾーン。
川崎民家園にもあったが、東北地方にあるL字型の家である。
室内の様子。
馬の餌を煮たり、洗体用のお湯を沸かす窯。
縦も横もでけえなあ。
馬もいます。
廊下に戻る。
左は企画展で、撮影禁止。
右に行くと、第4展示室。
廊下にはずいぶんな馬車が置いてある。
外国の大使公使を送迎するためのもの。
休憩室は、いきなり会議室っぽい内装。
こちらが第4展示室。
ここでは馬そのものの歴史を扱っている。
ジェネラル・スタッドブック。
サラブレッド馬の品種を記載している。
この厚さだと、サラブレッドってやたら多いんでしょうね(計算放棄)。
馬の骨(真)
馬に鐙などの馬具を付けるコーナー。
なお付けるだけで、この馬に乗ってはいけない模様。
乗りたい人はこちらへ。
公園の遊具みたいだけど。
馬には余すところがない、ということで、馬から作られる製品。
まさかの馬肉。
モンゴルなど遊牧民地帯では、馬乳酒という酒があるらしい。
その際に使う道具だとか。
文字通り、馬の乳から作るが、アルコール度数は1%しかない。
モンゴルでは赤ん坊にも飲ませているので、宴会用では無くて最早ヤクルトである。
あなたの馬力をはかる機械。
このバーを手前に引く。
馬力の定義はこれらしいが、この定義は国ごとに異なるので、これもうわかんねえな。
こちらは馬のコミュニケーションの仕方を表現する機械。
ボタンを押すと、いろいろやってくれる。
ボタン押さなくても、耳の部分動かすとか、勝手にやっているが。
以上で博物館終わり。
公園内にはポニーセンターなる施設があり、馬と遊べたり乗馬できたりする。
誰もいないが、けっこう広い。
厩舎を覗くと、ちゃんと馬がいた(当たり前)。
ちなみに馬は食物の消化効率が悪いため、一日の6~8割ほどの時間を食事に費やすらしい。
確かに、彼らもずっと食べていた。
公園内は馬にちなんだ名前やオブジェばかりだが、なぜかトイレへの標識だけはお化けである。
以上
【入館料】100円
【滞在時間】45分
【混雑度】★★★(一部屋に2~3人)
【URL】馬の博物館
横浜市三殿台考古館
三殿台考古館は、横浜市磯子区にある三殿台遺跡に関する資料館である。
地下鉄の弘明寺駅から徒歩15分。
三殿台遺跡は高台にあるため、険しい階段を登っていくことになる。
くぅ~疲れました(老並感)
敷地入って右手にある建物は、たぶん事務棟だから関係ない。
遺跡はこちら。
その左手にあるのが、考古館である。
建物内部は左半分が事務室であり、資料館部分は右半分という結構なミニチュア。
三殿台遺跡には、縄文・弥生・古墳の各時代のムラ跡が残っている。
BC25世紀~AD6世紀まで対応するという、相当な幅の広さ。
写真小さくて分かりづらいが、古代の横浜近辺は海である。
三殿台は下側の半島の付け根あたりだが、高台にあって海も近いため、防衛や食料入手が容易い位置として人が住みやすい場所だったようだ。
縄文時代の土器や石器。
自由に触れます。
黒曜石は相当鋭いので、扱いを間違えるとYOU DIEDされてしまうかもしれない。
クソの化石。
そんなの残さないでクレメンス。
狩猟時代だからか、絵がやたらダイナミックである。
市立博物館もそうだったが、横浜市は説明用漫画には気を使っているようである。
弥生時代。
磨製石器なので、すべすべしている。
カビでも培養しているのかと思ったら、炭化した米だった。
稲作の証拠である。
土器の蓋。
まれなものらしい。
古墳時代の土器。
縄文や弥生と異なり、もう紋様はほぼ付いていない。
付けるの飽きたのだろうか。
古墳時代以降は大型の土器は少なくなり、小さな器が増えていったらしい。
カマドの作り方。
ご丁寧に断面図まで。
弥生時代には漏れなく須恵器も付いてきます。
壁には貝塚を写し取ったのが飾られている。
張り付いている貝の数はさほどない。
埋蔵文化財センターのやつは気味悪いくらいビッシリだったが。
アホそうな人形。
考古館おしまい。
外の遺跡を見て回る。
イノシシがいる。
近くにあるバケツの中には弓矢。
これであのイノシシを仕留めろということだろうか。
地面に打たれている杭は、別にこの上を歩いて平衡感覚を鍛える用ではなく、古代の住居があった範囲を示している。
なおこの遺跡で、ゆずがアルバムブックレットの写真撮影をしたらしい。
彼らも遺跡好き兄貴なのだろうか(適当)
奥に見える建物の中にも住居跡がある。
なにかの実験で使っているので、ここだけ建物で保存している模様。
建物の向こう側には、復元住居が。
中に入ることもできる。
これは弥生時代の住居。
暗いなあ(当然)。
さらに奥に2棟ある。
ゲルみたいな形。
壊れかけの住居なので、入れなかった。
修復のための予算付けてくれよなー、たのむよー。
3つめ玄関に屋根があって、他よりもスタイリッシュ。
古墳時代のだからだろう、きっと。
中にはカマド。
便器ではない。
縄文~古墳時代にかけて、270もの住居跡が見つかっているのだと。
穴だらけですねえ。
以上。
【交通手段】弘明寺駅から徒歩15分
【入館料】無料
【滞在時間】40分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】
豊島屋本店ギャラリー鳩巣
鎌倉の鳩サブレで有名な豊島屋本店の2Fには、鳩のギャラリーがある。
お客さんの大半は鳩サブレ目当てなので、店内は混雑していてもギャラリー自体は空いてたりする。
ギャラリー名は「鳩巣」
やっぱ(鳩)好きなんスねえ
ライトアップが激しいので、写真がテカテカするでござる(安カメラ並感)
まず目につくのは、鳩をモチーフにした工芸品。
外国のハトと思わしきものたち。
これも白鳥では無くて、鳩である。
鎌倉の鶴岡八幡宮は白いハトが居ることで有名なので、鎌倉民にとっては白い鳥=ハトなのかもしれない。
鶴岡八幡宮に詣でるハトの皆さん。
別のケースには、西岸良平の『鎌倉ものがたり』がずらーっと並んでいる。
映画化するそうなので、企画モノかもしれない。
『鎌倉ものがたり』は1984年から連載している超ロングな漫画である(ボキャ貧)。
この作品の鎌倉では、妖怪や幽霊が跳躍跋扈したり、江ノ電が異界へ繋がったりするなど、ずいぶんとんでもないことになっているらしい。
田舎を馬鹿にしすぎなのでは(白目)。
いきなり文字が多くなるが、鳩サブレ誕生の経緯を説明したものである。
公式HPでも読むことができる。
明治時代、豊島屋の初代である久保田久次郎が外人から貰ったビスケットの美味しさに感動し、日本にはまだ存在していないこの菓子を作ろうと思ったのがきっかけだという。
試作品を知人の船長に食べさせたところ、おフランスのサブレーなる菓子に似ていると言われた。
ちなみにビスケットはバター:薄力粉=1:2だが、サブレーは1:1なんだってさ。
サブレーの由来は分かったが、なぜハトなのかというと、この久保田久次郎が鶴岡八幡宮を信奉しており、ハトは八幡神の使いである。
そして鶴岡八幡宮の境内にはハトが沢山おり、子供たちが親しんでいたため、ハトをモチーフにお菓子を作ろうと思い立ったと。
ついでだが、ハトは1万年前ほどから人類によって飼育化されており、人間との関わりは深い模様。
強い帰巣本能・優れた方向感覚から、遠方に連れて行っても家に帰れる。
よって伝書鳩としての役割が有名だが、第二次世界大戦では小型カメラを装着させて偵察として飛ばした軍もあり、案外最近まで使われていたのだった。
あと食用にもなるけど、雑食なので、野生のハトは美味しくないと思われる(残当)。
ハトリョーシカ。
なお久保田久次郎さんは頑張って鳩サブレを作ったものの、時代を先取り過ぎて明治時代の日本人はサブレに馴染まず、当初は人気なかったらしい。
評判が上がり始めたのは鳩サブレ売り出しから10年後のこと。
なぜかネコ。
関東大震災では店舗が倒壊するなど壊滅的被害を受けたが、めげない久次郎どのにより鳩サブレはヒット商品に。
なんて書いてあるか分らんが、初代の時代のものかと思われる看板。
そんなんで発展した豊島屋も、戦争の被害は甚大。
お菓子工場は軍需産業の下請けとして使われてお菓子製作どころではなくなり、戦争中は当然の事、終戦後も物資が限られる。
久次郎は鳩サブレ復活の夢を見つつ、それが叶う前に亡くなったという。
かなしいなぁ(哀悼)
ところで鳩サブレばかり有名な豊島屋だが、それ以外にも良いお菓子は沢山あるので、そっちの方もみてくれよなーたのむよー。
白黒の器。
ハトの色をベースに豊島屋が作ったのかと思ったら、この店舗敷地で発掘された焼き物だった。
なお鳩サブレのライバルとして、ひよこサブレなるものがあるらしい。
歴史的には明治時代からある鳩サブレの方が古いのだが、ひよこサブレ発祥の地である福岡ではサブレといえばひよこであり、また東京にも進出して着々と鳩サブレの隙を窺っている模様。
以上
【交通手段】鎌倉駅から徒歩10分
【入館料】無料
【滞在時間】20分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】
市ケ尾横穴古墳群
横穴墓とは、段丘とかに文字通り横穴を掘って、そこを墓とするものである。
5世紀後半から九州で始まり、8世紀頃には終焉した。
市ヶ尾の古墳は6世紀~7世紀にかけて作られたものであるという。
646年大化の改新の一連で「薄葬令」が出された。
身分ごとに作って良い墓の規模を決め、人馬の殉死を禁止するなど、葬礼を簡素化するものである。
これによって大規模な古墳は作られなくなり、その代わりに横穴墓が増えていったという。
ベンチ兼地図なのだが、古墳なみの年代物のようなやられっぷり。
入口は右下。
まずは左奥のA群から見に行く。
こんな感じ。
A群には12の墓がある。
塞がれてしまっている穴もあれば、
ガラス越しに見られるのもあり、
そして中に入れるものもある。
中は当然だが、なにがあるわけでもない。
ガラス張りの箇所にもパターンが幾つかあって、ここは窓の上に人感センサーが設置されている。
近づくと内部の照明が点灯する。
中には副葬品としてこんなものがあるらしいんだけど、暗くてよく見えないのよね。
あと穴の内部は3か所に分けられている。
一番奥の棺桶安置場所が、玄室。
そこに至る廊下部分が、羨道。
入り口部分が、前庭。
横穴墓は家族の墓であり、亡くなった家族は共通して1つの穴に葬っていた模様。
A群から、B群へ向かう。
こちら。
基本は先ほどと同じだが、こちらは人感センサーの他に、窓にワイパーが付いている。
内部と外の気温・湿度差で窓に水滴がガンガン付着しているので、右上の黒いのを動かして自分で拭けということ。
こちらの窓は人感センサーがなく、窓の上のボタンを押して明かりをつけろとのこと。
予算尽きたのかしら。
ただそのボタンが破壊されていたり、クモの巣だらけだったりしたので、無事スルー。
横穴墓からの景色図。
でも目の前おもいっきり山林で、まったく見えないのですが(困惑)。
以上。
【交通手段】市が尾駅から徒歩10分
【滞在時間】30分
【混雑度】★(誰もいない)
つる舞の里歴史資料館
ここは大和市にある歴史資料館である。
入口。
しかし屋根の材質が、下鶴間ふるさと館の古民家と同じ気がする。
あちらは江戸時代の建築で、こちらは平成になってからの開館なのだが。
中は古民家っぽい。
なぜかキンチョールの看板。
事務室側。
ご自由にご覧下さいの資料ゾーン。
TVのうしろにヤマトン@スライムverが潜んでいる。
すごろく。
資料ゾーンの横には、なんだか盛大な建物が。
トイレだった。
その盛大なトイレの前には、蔵っぽいものがある。
こちらは資料保存室となっており、中には入れない。
写真は公式HPから。
しかし平成年代につくられたせいか、やたら内装は凝っており、こちらが予算状況について不安になってしまう。
盛大なトイレの前には、展示が色々。
まずは鶴間の変遷。
現在でこそ鶴間は町田市・相模原市・大和市の3市に分かれているが、15世紀までは1つの郷だった。
それがこんな感じで、3分割されてしまったらしい。
つまり鶴間民は、欧米によって国境を線引きされてバラバラになってしまった中東の民族と同じだということだろう(論理飛躍)。
次は鶴間の名の由来について、2説書いてある。
その②説では、「鶴間地域を通る境川が大きく蛇行している形が弓の弦(つる)を思わせる」ため弦間→鶴間という。
室町幕府の目録に「弦間郷」という名で記載されているらしいので、この説が有力な気はする。
地名に関しては伝説が書いてあるが、いずれも「鶴が飛んだから」みたいなノリになっている。
そしてここから本格的な展示コーナー。
動物たちとの大きさ比べ。
鹿も象もでけえなあ(当然)。
木の冷蔵庫。
上の段に氷を入れて、下の段に冷やすものを入れるらしい。
隣に三菱の箱があるが、特に説明は無し。
明かりシリーズ。
こちらは電話シリーズと、余ったスペースにタイプライター。
おなじみ、石器の皆さん。
ただ貸し出し中の道具が結構あるので、イメージでお楽しみください。
林間都市計画について。
戦前、中央林間のあたりは雑木林であったが、小田急が江の島線を開業することに伴い、その一帯を都市開発しようとした。
分譲住宅の購入者には3年間小田急の乗車券が与えられ、また都市内に松竹撮影所のほか、力士育成所(強そう)なども作ろうとしたという。
しかし当時はまだ都心までの通勤時間が長すぎたり、住宅分譲価格が高すぎて、計画はポシャッてしまった。
開発が進むのは、1984年に東急の田園都市線が乗り入れてからで、中央林間の開発は東急によって進められることになる。
なお小田急は自社路線が通る中央林間一帯の開発を計画しており、鶴間はその中に入っていなかった模様。
模型。
大和市にあった深見城である。
まあ城といっても山城だし、築城時期も廃城時期も城主すらも不明であるという。
現在はその近くに下水処理場が建てられている。
以上。
【交通手段】つきみ野駅から徒歩10分
【入館料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★(誰もいない)
【URL】大和市/つる舞の里歴史資料館