泉橋酒造
泉橋酒造は、海老名にある日本酒の酒蔵である。
農業的には結構残念な土地である神奈川県において、海老名は貴重な米どころであり、また名水である丹沢山系の相模川が通る地域でもある。
泉橋酒造はこの地で1857年から営業している。
その泉橋酒造は、毎週酒造見学会をやっており、公式HPにて応募することができる。
見学後は試飲会もあるということで、(行くのは)当たり前だよなぁ
海老名駅から徒歩で20分程度なので、車じゃなくても来れます。
一番奥の建物の2階へあがり、見学会の受付。
以下ごちゃごちゃと知識ぶったことを書いているが、全問正解しているか確信が無いので、許してクレメンス(小並)
見学会が始まると、まずは酒造の裏の田んぼへ。
泉橋酒造は、自ら所有する田んぼの他、地元の農家と契約して酒米を生産しており、それが酒蔵で扱う酒米の95%を占めるとのこと。
残りの5%は他地域からの購入だが、それは不作時に備えての保険。
稲作から始める酒造はなかなか聞かないので、そこから手間かけてるという点が、泉橋酒造の誇らしい点だそうだ。
奥の方に見えるのが、丹沢山系の山々である。
ここでは定番の山田錦のみならず、雄町・神力など計5種類の酒米を栽培している。
酒米ごとに収穫時期が違う。
10人弱でやってるこの酒造としては、収穫時期が重なると作業量が増えて人手が足りなくなるので、時期をずらすための策である。
収穫された米は、精米所へ。
右奥に見える白い機械は、酒米乾燥機であり、ここで米を乾燥させて不要な水分を飛ばす。
なお普通の稲作では収穫した米をみんなひとまとめにしてしまうのだが、この酒造では畑ごとの出来不出来を確かめるためにわざわざ分ける。
出来が悪いと精米歩合を高めなくてはならず、逆だとそんなに削らなくても通用する。
ワインみたいである。
乾燥が終わったら、この左斜め前のタンクに入れて、精米。
上から米を落として、下部に設置している砥石にぶつけて削り、その米を再度上まで運んでまた落とす。
あんまりやると米が割れてしまうので、要注意。
精米の終わった米は運び出されるが、削られた糠はこっちのタンクに貯められる。
米の外側部分にあったか、内側部分にあったかで糠も何種類かに分かれる。
酒屋で売ってる食用の糠は、米の中心に近い白糠など。
逆にこの中糠くんはあまり使い道が無く、水田一面を覆うようにばらまいて水底に日光が行かないようにし、雑草を枯らし倒すという目的で起用されている。
続いて、水。
敷地内に相模川の伏流水があり、このポンプ室で地下100メートルから汲み上げている。
灘ほどではないが、この水けっこう硬度が高い。
硬度が高いとそれだけミネラルが含まれているので、酒造りにおいては発酵が進みやすく、辛口になりやすいという。
というわけで、泉橋酒造は辛口の酒が主流である。
米と水がそろったところで、マスクとヘアキャップ着用でいよいよ酒造の中へ。
ちなみに納豆を食べてくるのはNGである。
納豆菌が麹についてしまうと、もはや米ではなく納豆の麹になってしまい、麹が台無しになるからである。
後述するように、ここの酒造は特に本気で麹造りしているから、やらかしたときは発狂ものになるであろう(震え)。
最初に見るのは、米を蒸すスチーム窯。
右側のでかい桶みたいなやつに米をいれ、スチーム窯に入れて蒸す。
ウルトラHOTになった蒸米は、この機械の下部にセットする。
すると機械上部から冷気が送られて、冷えるでござる。
続いて麹づくりだが、麹米は機械を使わず、この青い器に入れて手洗いで精米するらしい。
量が少ないからとはいえ、相当な重労働である。
寒い日とかやばそう(凍え)。
麹米を洗って蒸したら、麹室に突っ込むのである。
これまた手作業で蒸米を冷まし、麹菌を振りかけて、うんたらかんたら(雑)
一瞬だけ部屋の中を覗かせてもらった。
布が被っている下に、麹菌を振りかけて寝かせている蒸米があると思われる。
寝かせた後の蒸米は、麹の発熱でアツゥイになってしまうので、箱に小分けして冷ましつつ麹菌を広がらせて麹の完成。
定期的にかき混ぜないといけないので、夜中すら油断できない。
箱。
酒造ごとに大きさは違うらしい。
ここまで手作業でほぼやっているので、たしかに納豆で台無しになったらショック死ものである。
あとは酒母だけど、こちらの製造室は全身消毒必須などハードルたかすぎるので、今回は立ち入りできず。
なお酒母作りにおいては、水+麹+蒸米+酵母+乳酸の速醸酛作りがノーマル。
しかし泉橋酒造といえば生酛作り。
乳酸を入れない代わりに、上記で足し合わせた物どもをかき混ぜまくることで乳酸など様々な菌が発生しやすい状態を整える、やたら手間のかかる伝統方法である。
最後に見学したのが、水+蒸米+麹+酒母=もろみ。
酒造りの時期だからこそ見れる代物だが、普通の酒造ならなかなか見せてくれない気がする。
見学ツアー終わり。
ここまでで1時間程度。
そして最後に、お楽しみの試飲会である。
なんとおつまみ付き。
泉橋酒造は食中酒が多いため。
まぁ見学代金1500円取られているけど、これだけ詳しく説明を受けられて、かつ飲食も楽しめるので、たいへんご満足の模様。
お土産は、売店である酒友館でお買い求めできます。
中はそんなに広くない上、見学会後はだいぶ混むので、見学会が始まる前にお土産の目星は付けておくのもあり。
以上。
【交通手段】海老名駅から徒歩20分か、西口からバス5分「今泉」下車 徒歩5分
【入館料】見学&試飲会は1500円
【滞在時間】120分(うち見学&試飲会で90分)
【混雑度】★★★★(だいぶ混む)
【URL】
大和市郷土民家園
大和市郷土民家園は、江戸時代に大和市域にあった民家を飾っているところである。
民家園と言えば川崎の日本民家園が圧倒的すぎるのだが、なんと大和市にもある。
川崎の民家園が25棟もの古民家を並べているのに対し、こちらは2棟ではあるが。
まぁ川崎が異常出血大サービスなだけで、これくらいが普通な気はする。
1棟目。
江戸時代中頃の建築であり、大和市内では最古のものらしい。
一番古くて江戸時代って、民家少なくないっすかね(名推理)。
入り口部分。
段差もとい敷居部分は、「主人の額」というらしい。
その家の主人が嫌いなのであれば、思いっきり踏んで良いのかもしれない。
中はこんな感じ。
農機具ごちゃごちゃ。
土間では農作業もやっていたため。
かまど。
ハンドメイドな間取り図である。
もう1棟の図面までこっちの建物に展示している。
上がったところ。
ここは「デエ」。
客室のうち、最高級な部屋を指す。
最高級とは(哲学)。
左隣にあるのは「ヘヤ」。
家主用の寝室であるが、入り口部分以外の3方はすべて土壁で閉ざされているとのことで、入らせてもらえない。
引きこもり的な家主だったのだろうか。
模型とちりとり。
けっこう行事をやるようだ。
稼働率上げて、ホラ。
外には、家の中に入り切らなかったと思われる農機具やかかし達。
1棟目の裏側に、2棟目が建っている。
こちらは江戸末期の、養蚕農家とのこと。
大和市で養蚕が始まったのは江戸後期というから、だいぶ遅い感じ。
と思ったけど、国内で養蚕技術が発展したのは幕末に近くなってかららしい。
江戸時代に入るまでは品質で勝る中国から輸入していたが、金貨を外国に出したくない鎖国政策のため輸入を減らし、国内の農家は試行錯誤を繰り返して生糸のレベルを上げたとのこと。
かまど。
石は栃木の大谷石、外側は小牧の中塗り土・土佐の漆喰を用いている。
見た目全然わからんが、案外素材にこだわっているようである。
メインの座敷から敷居を隔ててこっち側は「カッテ」という。
座敷は接客用だが、家内の食事や団らんはこっちでやるという。
だいぶ押しやられている感はある。
ところ狭しと養蚕グッズ。
座敷の奥にある部屋は「オク」。
そのまんまである。
さっきの家にはなかった床の間。
泥団子のオブジェ。
狙いは何なんだろう。
棚の材質を見ても、1軒目よりは金持ってそうである。
しかし家主の寝室である「ナンド」は、だいぶ質素だった。
なお1棟目では寝室を「ヘヤ」と呼んでいたが、大和市内でも地域で呼び方が変わるようだ。
燃えたら困るので、消火器は大量に備えられている。
2棟目もおしまい。
民家園入口の方に戻ると、こんなのが置いてあった。
おもちゃは100円から。
値下げした模様。
来園者の作品も飾られている。
だいぶ難易度の高い作品だった。
管理事務所の建物も、他の民家レベルで質素である。
その窓から、なんか覗いている。
この緑色のキャラは、大和市の「ヤマトン」というらしい。
右の赤いのは「ハートン」。
どう考えても、どっかのポンキッキーにしか見えないが、なに気にすることはない。
以上。
【交通手段】相鉄相模大塚駅から徒歩10分
【入館料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】大和市/大和市郷土民家園
時宗 当麻山 無量光寺
寺門まわりの風景。
神奈川県民でも存在を知らないという、JR相模線の原当麻駅から徒歩15分。
ここはもともと一遍上人が草庵として利用していた土地。
一遍の死後に、弟子であった他阿(たあ)が信徒を教団としてまとめ上げ、本拠の寺として建てたのが無量光寺である。
当麻「山」ということで、坂を上っていく。
坂を上り、墓地を通り抜けると、山門。
17世紀の建築だそうだ。
さて、無量光寺は時宗の本山として開基されたわけだが、3代目の死後に跡目争いがあり、分離する形で出来たのが藤沢の遊行寺である。
あとの流れは遊行寺の記事で書いたので端折るが、いまでは遊行寺が総本山であり、無量光寺は、まぁ多少はね?
山門の中へ。
道の左手には現代的な建造物が。
左は永代供養墓。
右のは北里大学医学部が建てた納骨堂で、医学部に献体してくれた人たちを弔うものである。
入口の道を、奥まで進む。
ちなみにこの場所には本堂があったらしいが、明治時代に焼けてしまったらしい。
本堂跡の前には、灯篭。
けっこう新しい。
歴史ある寺だと、檀家もいるのだろう。
手水。
みんなどうしても龍にするんだな。
やっぱ好きなんすねえ。
鐘は遊行寺と違って、突くことができます。
これはポイント高い!(迫真)
経典を収めておく経堂も、やたら新しい。
木の周りを囲ってなにか飾られてる。
手水の水を落として音を鳴らす水琴窟。
水が流れてないようですが(すっとぼけ)。
もっと大きい木もあります。
山門からみて右奥にある本堂はこちら。
この本堂、「仮」であるらしい。
もとの本堂はさっき一遍上人像があったところだから。
でもその本堂焼けたの明治時代なんだってば(困惑)。
賽銭箱のうえには提灯が。
そして賽銭箱のむこうは全面ガラス戸という斬新さ。
内部には、一遍上人が作成に加わったと伝えられる像があり、10月の開山忌法要の際に見られるようだ。
引き返し、今度は山門から見て左方向に行くと、鬱蒼とした林になる。
池。
鯉もおります。
カメもいるらしいが、発見できず。
橋を渡った先は用具室だと思われる。
やたら大きな木が池の上に倒れている。
倒れているけど保存しないといけないらしい。
境内はこんな感じでした。
あと公式HPみると、「松平家の祖先である得川親氏がこの寺に入った後、三河へ移って松平家を興し、徳川家へと続いた」ってあるんだけど。
一方で遊行寺さんサイドは「親氏は遊行寺に入山した」って言ってるし。
両者で徳川の祖先争いをしているのだが、まぁ双方の過去の争いは坊さんでも簡単に洗い流せないということだろう(適当)。
そもそも松平家の祖先が得川親氏ということ自体に確たる証拠がないため、松平・徳川家のでっちあげ説がある。
得川家は新田源氏の末裔であり、つまり松平・徳川家は源氏の末裔なりと主張したいがための作り話であったかもしれない、なんだってさ。
しかし公式HPで、こういう可愛い散策マップを載せたりしているので、応援したくなったりはする。
以上。
【交通手段】原当麻駅から徒歩15分
【入場料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】
横浜市技能文化会館 匠プラザ
横浜市技能文化会館には、職人たちの技能や道具を展示する匠プラザがある。
技能文化会館は地下鉄の伊勢崎長者町駅すぐにあり、ここの1Fが匠プラザである。
建物自体には技能体験セミナーや就労支援・会議室など様々な機能があり、普通のビルである。
入口くぐって目の前にあるのが、これ。
中はこんな感じ。
裁縫セミナーとか職人の技実演会とかたまにやってるらしい。
開港後の横浜には多くの技能職人が集まったので、それら職種について説明し、その道具を所狭しと並べまくっている。
入口右手から回ると、最初は大工コーナー。
こんな風に、それぞれの道具について説明書きがある。
ショーウインドーの中に展示がされていて、手前側にある説明書きは読めるんだけど、奥の方に置いてあるやつ見えないんだよなぁ(老眼)。
カンナ。
ミスチルの曲と、ポケモンの四天王で名前は知ってたけど、実物を知ってる人って多いのかしら。
技能職人たちの像。
左の会議机といい、ほんとうに敷き詰められている感である。
石工。
石ばっかり(当然)
白いのは花崗岩と思われる。
固いので明治初期には扱えなかったが、明治30年代頃に技術発展で使用され始めた。
竹で壁の下地(木舞)を作る、木舞屋という職業があるらしい。
その肝心な木舞が奥に置いてあるが、手前の絵のせいでよく見えない。
左官屋さんがペタペタ塗るやつ。
畳屋さん。
畳屋さんの神様は、浦島太郎のモデルこと彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)らしい。
この人が竜宮城みたいなところへ行ったところ、そこのボスの海神が八重の畳を用意して出迎えたと日本書紀にあるので、きっと畳で迎えられた史上初の人なのだろう。
八重であって、八畳では無いので注意。
「生活関連コーナー」。
だが最初に錨が展示してあるんですが、それは。
印鑑職人は手彫りの高難易度。
見えづらくてすまんが、印鑑はこんな器具に固定して彫る模様。
時計屋さんと眼鏡屋さん。
時計の道具。
置き方にセンスを感じる。
こんな道具もあるんだな。
かみそり。
職人の手にかかれば、これくらい速攻である。
しかし今の子供たちはウルトラマンどれくらい知ってるんだろうか。
最後に、アイロン。
石炭アイロン見るたびに、煙やばくないか心配になる。
あと下手に触ったら超絶やけどしそう。
以上。
【交通手段】伊勢崎長者町駅から徒歩5分
【入館料】無料
【混雑度】★★(他に2~3人)
【滞在時間】20分
【URL】
横浜山手・テニス発祥記念館
ここは日本におけるテニス発祥について語る記念館である。
中はログハウスな感じ。
外は現役のテニス場。
入口正面にあるのが、この展示。
右側は昔のテニスボール。
石を芯にして、布で包んで糸で巻いているらしい。
なにそれ痛そう。
15世紀頃のラケット。
手袋みたいに着用して使うらしい。
痛そう(確信)
裏はこんなかんじ。
ラケットに隠れて見えづらいが、この絵のような感じでプレーする。
手で打つもんだから、やたら至近距離である。
なお元々は素手で打ち合っていたが(震え)、手の防護のためラケットを使いだしたらしい。
ラケットいろいろ。
変った形のもある。
子供用はこんなんだったらしい。
虫取り網みたいだな。
ボールは、この幼女が手に持ってるやつ。
もはやバトミントンである。
テニスの歴史は古く、人々が球を打ち合う様は、紀元前15世紀エジプトの壁画に描かれていたりする。
それが12世紀頃にヨーロッパに伝わって、先ほどの手で打ち合う痛そうなスポーツとしてフランスで流行り、さらに広まっていった。
現在のテニス形式は、1873年にイギリス軍人ウィングフィールド少佐が考案したもの。
これが芝生の上で行う「ローンテニス」。
ウィングフィールド少佐は「スフェリスティキ」という名前で呼んでいたそうだが、呼びにくいので誰もマネしなかったようである(涙)
またウィングフィールド少佐のテニスコートは、ずいぶん不思議な形である。
1877年の第1回ウィンブルドン選手権では、現在のように長方形にされた模様。
テニスは英米で流行し、ラケットのほかネットやポールも合わせたテニスセットも登場。
ボールも現在のものに近くなってくる。
右のは饅頭みたいだが。
女性のスポーツ着はこの時代なかったので、まさかのドレスである。
案の定、裾をふんでコケることが多く、裾をたくし上げる用具まで開発された。
だれか体操着つくってやれよ・・
そんなテニスも日本に伝来し、横浜の外国人居留地でも1876年にプレーされたという記録がある。
今のところ、日本でこれより早くテニスがプレーされた記録が無いようなので、横浜がテニス発祥の地なのである(大勝利)。
テニスとお茶は、英国人にとって酸素レベルで必要だった模様。
ステンドグラスまで作ってしまった。
歌まで書いてしまった。
しかし竹久夢二が書くと、とてもテニスに見えないのである。
ボール入れいろいろ。
最後に、昔のラケットに触れるコーナー。
ただガットがだいぶ怪しいので、注意が必要である。
以上。
【交通手段】石川町から徒歩10分。桜木町駅などからバス20分。
【入館料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】